おひまなときにだうぞ
昨日5/22はサイクリングの日だそうです。
ワタクシは中学時代は大雨が降ろうが大風が吹こうが
週6日、片道2kmのチャリ通学だったこともあり
(大雪が積もった時だけはさすがに徒歩でしたが、
中学3年間で1度だけだった記憶 in太平洋側平野部)、
50代の今もチャリで4~5km、20分とかなら遠いとか
全く感じないですね。鼻歌・口笛のディスタンスですよ。
現在の日常において、最寄り駅まで出て電車を待ち、
2~3駅ゆられて着いた駅からさらに徒歩6分以上とかの行先なら
ドアtoドアのダイレクトにチャリで行っても所要時間が
変わらないどころか、むしろ早いことも多く、
そういう距離なら天候次第ですが基本はチャリですね。
今はまたクルマがあるので、飲酒する予定が全くなくて
無料Pがある場所ならクルマで行きますけどね。
そういうTPO次第で自転車マイカー電車バスTAXI競歩wを
フレキシブルに使い分けてるワタクシですが
(昭和の中免取得者なので普自二輪も乗れますけど
もぉ四輪とチャリさえあれば十分ですね)、
乗ってるチャリはロードレーサーでもMTBでもなく、
かといってママチャリでもなく、シンプルなトンボハンドルに
直線フレームで、デフォ前カゴ付き荷台ナシの軽快車てか、
ママチャリではない方のシティサイクルですね。
でも7段変速です。ワタクシんちから半径3マイル圏内には
線路をくぐる地下道を含め、なにげに坂もあるので
ギアチェンジは頻繁にしてる方だと思います。電動以外は
みんなチャリを降りて押して登ってる急坂でも、
ワタクシは1速まで落とし、決して立ちコギすることもなく、
意地でも座ったまま乗りきってw、涼し気な顔を装ったドヤ顔を
してるはずですがw、その登坂スピードは押して歩いてる人と
大差なくて無意味なのも事実ですw。しかしそれがローギアの
醍醐味?wですよ。なんじゃそりゃw
ワタクシは日常の移動手段として自転車を使ってるだけで、
いわゆるサイクリングとか全然してませんけど、さる2月なかば
(ちょうど当blogが約2ヶ月、新規投稿を休止してた頃です。)に
隣国でサイクリングといえば完全なサイクリングをしてきました。
身内が台湾で亡くなり、葬儀に行ってきたのですが、そのあと
ついでに台湾1人旅を敢行。過去7ヶ国に渡航経験がありますが
海外1人旅は今回が初です。人生2度目の台湾で、
まだ行ったことのない台南市へ行ってみました。出発前に
ネット予約しておいた台南のホテルが無料レンタル自転車の
サービス付きだったので、最初はバスかタクシーに乗って
行くつもりだった2ヶ所にむけてサイクリングを決行。
ホテルの貸し自転車もスポーティなクロスバイクだしね。
まず目指したのは鎮安堂 飛虎将軍廟です。台南の中心部の
ホテルから4km程度なので20分で行けると思ったのですが、
1時間近くもかかってしまいました。途中で道をまちがえ、
修正したら今度は行き過ぎたり、と散々です。スマホで
現在地情報が読み取れなかったのが迷った最大の原因でしたが、
それ以前に台湾での初チャリ、日本とは勝手が違い過ぎた事でも
時間を大幅にロスしてしまいました。日本と同じ感覚でチャリに
乗ってたら恐らく警官に捕まりますよ。台湾ルールに気付く前に
警官には出会わずラッキーでした。何が違うかと言うと、
日本では道交法的にチャリは車道の左端を走るのが原則ながら、
歩行者を最優先するのであれば法的にも歩道の走行はOKな
わけですが、台湾では歩道を走ってる自転車などいません。
全員車道ですよ。ちなみに台湾では車輌は右側通行です
(日治時期の動画を見ると日式に左側通行なので大東亜戦争後、
日本から国民党政府に統治権が移った際に変更した模様)。
日本では反対車線をチャリで逆走するのは違法だとはいいつつ、
逆走車が多すぎて警察も黙認状態てか、そもそもチャリも車道の
逆走は違法だという認識すらない者が非常に多そうですが、
台湾ではチャリも全員キッチリ右側車線の右端を走行してるワケ。
そんな事情も全く知らなかったワタクシは最初にチャリで
ホテルを出て大通りの歩道をしばらく走ってると、通行人から
怪訝な顔で見られてるのに気付くと同時に、歩道走行のチャリなど
自分以外に一台もないことに気付き、あわてて車道に出たら
出たで、それが逆車線。正面から来るバイク(これは原付~
自動二輪です)の群れに警笛を鳴らされて、すぐまた歩道へw。
仕方なくチャリを降りて次の信号まで歩道を押して歩き、
反対車線に渡って右側通行の車道の右端をやっと走行開始。
ようするに台湾ではチャリも原付バイクと全く同様な運転を
しなきゃダメな模様。そもそも見た感じ、二輪車は四輪の
3倍は走ってそなバイク王国の中、チャリは完全に少数派で、
だいたいバイク30台に対してチャリ1台ってなイメージです。
なのでチャリ専用車線など当然なく、車道の右側の
バイク専用車線をチャリも走らせてもらってる、って感じ。
なので邪魔がられて、あおられる、あおられるw。
しばらく走ると、うまい追い越され方には慣れてくるけど
交差点での左折に慣れるのには苦労したかも。そんなこんなで
冷や汗かきかきw辿りついたのが↓
中華民國 臺灣省 臺南市 安南區 同安路127號 No.127, Tong'an Road, Annan District, Tainan City, Taiwan R.O.C. この繁体字での正式フル住所は面白いから書いてるだけで ワタクシは台湾独立支持派です。 なので中華民国の国名は放棄して台湾国への変更支持! |
この鎮安堂 飛虎将軍廟は、大東亜戦争中に台南上空で戦死した
帝国海軍201航空隊の戦闘機乗り、水戸出身の杉浦茂峰飛行兵曹長
(戦死して少尉)の像が御神体です。なにゆえ日本軍の1飛行士が
神として祀られてるかといいますと、1944(昭和19)年10月12日、
台南空襲に飛来した米軍機編隊を零戦三二型で迎撃し、
空中戦を展開した杉浦飛曹長は、武運つたなく被弾。
その場ですぐ落下傘脱出すれば生還できた可能性大な状況で、
市街地上空だったため、もし見捨てた乗機が市街に墜落すれば
最悪、市民に多大な犠牲者を出しかねないと杉浦飛曹長は
判断したらしく、いつ空中爆発するかわからない危険も顧みず、
黒煙をひきずる乗機をなんとか街はずれ上空まで操り、そこで
やっと脱出。機体は無人の畑に墜落。しかし黒煙を追尾してきた
敵戦闘機により落下傘降下中を銃撃され戦死。台南市民のことを
案じて自らの命を落とした杉浦茂峰飛行兵曹長、もとい少尉に
感謝し称え鎮魂すべく、墜落点付近の有志が1971(昭和46)年に
廟を建立。台湾人によって日本軍人が神として祀られたのです。
謝謝台湾、日台友好萬歳!
鎮安堂 飛虎将軍廟。祭壇の左右には日台の両国旗 |
鎮安堂 飛虎将軍廟。祭壇脇には杉浦少尉の資料&お土産コーナー |
今度は最初から台湾のチャリ走行法もわかってるうえ、
スマホの現在地情報(by"ゴーグレ")もバッチリ機能
(前日はホテルの無料"ウィフィ"接続に失敗してた模様)。
迷うことなく予定通りの20分で到着。
着いた場所は、またしても日本軍人を神として祀る、慶隆廟。
17世紀の明朝末期に台湾をオランダから奪い返した明の英雄、
鄭成功(また後で触れます)の部下の謝永常将軍が主祭神で、
さらにその配下の趙勝将軍と、なぜか明治初期の日本軍人、
吉原小造大佐の像も祀られています。
吉原大佐(この廟では吉原元帥との表記も見られますw)は
1874(明治7)年の台湾出兵(台湾に難破漂着した宮古島の海人
54名が台湾原住民に殺害されたことを明治政府が清国政府に
抗議すると、台湾原住民のやらかしたことなど清国政府は
関知せぬ、とシカトされたので怒った明治政府は台湾に出兵し、
一部を占領。日清戦争の20年前の話です。英国の仲介もあり
清国は日本に見舞金を支払って和解し、日本軍は撤収。)で
戦死した日本兵12名(他にマラリア等に感染し、総兵力約6千人中
なんと561名もが戦病死するという、明治新政府初の海外派兵は
悲惨な結果に終わった模様。しかし大きな収穫もありました。
宮古と八重山の両群島を含む琉球諸島の全島民は日本国民である
ということを清国政府に認知させることができたのです。)
のうちの1人な模様。吉原大佐は原住民の放った毒矢に当たって
戦死とのこと。台湾のために特に何をしたとかは不明な
吉原大佐ですが、なぜ祀られてるかというと、1962(昭和37)年の
ある時期、台南市民計数十人の夢枕に上述の謝永常将軍が現れ、
自身と部下の遺骨、および趙勝将軍とその部下の遺骨、さらに
吉原大佐とその部下の遺骨が某中学の校庭に埋まってるので、
改めて埋葬し直してほしい、と語ったとのこと。台南市内は
その話題で持ち切りとなり、そのお告げ通りに指定の校庭を
掘り返してみると、なんと1,000余体もの遺骨が馬300頭の
骨と共に現れたので、廟を建てて祀ろうという話になり
寄付金を募って10年後の1972(昭和47)年、慶隆廟が完成。↓
中華民國 臺灣省 臺南市 東區 裕永路59號 No.59, Yuyong Road, East District, Tainan City, Taiwan R.O.C. |
慶隆廟。御神体は左から趙将軍、謝将軍、吉原大佐。 早朝一番乗りにつき、線香はまだワタクシがあげた3本のみ |
台湾占領中のオランダ軍を打ち負かして追い出した、台湾永遠の
ヒーロー、国姓爺(コクセンヤ)とも称される鄭成功(テイセイコウ/ヂォンチォンゴン)は、
日本の肥前(長崎県)の貿易港、平戸で生まれた日明ハーフです。
日本名は福松。父親は明国人の貿易商→ほぼ海賊→都督(軍司令官)
に明の末期に任命された鄭芝龍(テイシリュウ)。貿易商時代に平戸で
結婚した相手は日本人で平戸藩士の娘・田川マツ。そういう日本との
縁も手伝ってのことか、鄭成功配下の謝将軍の霊魂は、
台湾で亡くなった吉原大佐以下日本将兵のことも気にかけてくれて
一緒に祀らせてくれたのかもしれませんねぇ。
謝謝台湾、日台友好萬歳!
台南市内中心部にある観光地・赤嵌楼(セキカンロウ/チーカンロウ)は、
元はオランダが築いたプロヴィンティアという城で、
ここで鄭成功の軍に包囲されたオランダ軍はついに降伏し、
バタビヤ(インドネシア)まで引き揚げたのです。
オランダを駆逐して台湾全島を掌握した鄭成功は、
この城を東都承天府と名付け、台湾全島の行政府とし、
大陸では明国を滅ぼした清国と、鄭氏台湾は対峙していくのです。
赤嵌楼(鄭成功の東都承天府) |
赤嵌楼の庭園に建つ銅像。鄭成功(右から2人目)に降伏する蘭人(左端)ザマぁの図w |
ついでにもう1つ、日本人に縁のある台南市内の観光名所、
林(ハヤシ)百貨店です。↓
DEP'T STORE HAYASHI |
1932(昭和7)年に、日本人の林方一が開店した百貨店。
1945(昭和20)年3月1日の米軍機による台南大空襲で
屋上・外壁・床に被害。同年閉店。大東亜戦争後は国民党政府の
軍や警察が建物を利用。その後しばらく空き家。
2014年、台南でファッションビルを経営する会社が"林百貨"
(Lin百貨ちゃいまんねん、現地発音でもHayashi百貨でんねん)
の名でデパートとして復活。1945年の空襲で吹き飛んだ
屋上の神社、そのまま保存されてます。↓
林百貨の屋上神社(周囲の壁面には機銃痕多数) |
ハンパないす。謝謝台湾、日台友好萬歳!(←3度目w)
しかしつい最近、耳を疑うニュースが飛び込みました。
台南の郊外(チャリではちょっと遠杉る20~30km)にある、
烏山頭(ウサントウ)ダムを設計し、建設工事も陣頭で指揮をした
日本人技師、八田與一(ハッタヨイチ)の功績を称えて台湾の皆さんが
同ダムの近くに建立した八田與一の銅像の、あろうことか
その首が何者かによって切り落とされてたのです。
同ダムは日本統治時代の1920(大正9)年着工、1930(昭和5)年の
竣工当時は世界最大のダムでした。同ダムを水源として
灌漑用水が整備された嘉南平野は一大穀倉地帯となり、
台湾の食糧事情は一気に向上して、台湾の民衆から八田與一は
恩人として敬愛されてきたわけですが、その事実が面白くない、
気に入らない、というヤカラによる犯行に間違いないでしょう。
後日追記:逮捕された八田與一像損壊犯は2名で、うち1人は
元台北市議だそうです。大陸シナ本土と台湾の合併を目指してる
中華統一派だそうです。その2名はおそらく、まず間違いなく
外省人(ガイショウジン。1945年に日本から台湾統治を引き継いだ
国民党と共に大陸から台湾に渡ってきた支那人。特に1949年、
毛沢東ひきいる共産党との内戦に敗れて台湾に逃れてきた
蒋介石ひきいる国民党とその支持者や国民党政府軍将兵と
それらの家族及びその子孫。台湾国民の約15%。反日家が多い)
でしょうね。本省人(ホンショウジン。1945年の日本敗戦時以前から台湾に
住んでた者とその子孫。今の台湾国民の約85%。親日家が多い)
の確率は低いでしょう。ちなみに日本の民辛党の女性害国人代表、
謝(村田)蓮呆の父親、バナナ・マフィアだった謝哲信も大陸出身の
外省人です。蓮ポーの父親も本人も、親日台湾人などではなく
反日支那人なのです。親台派の皆さん、覚えておいてください。
おクチ直しに、台南料理といえば日本人に一番有名なのは
何といっても台南担仔(タンツー)麺ですが、その原始店(元祖の店)と
いわれてる老舗、"度松月"の台南本店で食してきましたよ。
って担仔麺、喰い終えてんじゃんかよー、なんでやねん!
丼の絵柄を見て欲しかったのです。なアホな!