平成最後の夏と秋に嗜んだ麦酒 御殿場産デーハーツェー・ビールw 放言BARリークス,ニュース女子,虎ノ門ニュースの スポンサーを呑んで支援!!! Doreも皆 Hanayagu香りで Cheers!な by 駄びす家 |
激ロング長文につき【閲覧注意】
3回に読み分け推奨!
第1ラウンド
超一流作家・百田尚樹大先生様(売国サヨクと反日害国人から、
ホラ吹きだの、ハゲだの、なに今頃ハナ整形しとんね?[※註]だのと
叩かれまくってて、お可哀そうなのでwワタクシは思いっきり
持ち上げといたつもりなのですが、逆効果ですかね?w)
の本年の大ベストセラー(現時点で55万部、パヨク絶惨発狂中w)
「日本国紀」(幻冬舎 ¥1,800+税)、ワタクシが10月半ばに
通販予約した時点では11/15(木)発売予定だったのが、
11/12(月)発売に繰り上がり、さらに曜日による流通の都合的に、
早い店では11/9(金)の午後には店頭に並んでたらしく、
ワタクシんちには11/11(日)に届きました。それ以来48日間もかけて
三日前にやっと読了。ってのも装丁が立派すぎてブ厚く、
外に持ち歩くには全くの不向きで、自宅でしか読まなかったんです。
電車内とかでは他の文庫本とか読んでたワケ。
※註:百田さんは若い頃ボクシング経験者で約40年前当時、
鼻を骨折したのに気づかず放置してたら鼻骨が変な形に固まり、
鼻呼吸がうまくできない鼻になってた模様。それで先週、鼻を
手術したら急に鼻が高くなったとのこと。実は鼻呼吸うんぬんは
カモフラージュで、本が売れてカネも入り、単に整形して
男前になりたくて鼻をイジったw、という疑惑を反日左巻が
拡散してるとか、してないとか、パヨクしょうもなw
ということで、ここからが本日の本題。歴じぃ自称のワタクシが
百田本「国紀」(初版)を読んで、「ん?」と感じた箇所を勝手ながら
紹介させて戴きます。歴史学者でもない1シロウト歴史オタなだけの
ワタクシが単に「そう書くんなら、こう書いたほが良くなくない?」とか
「それに言及するなら、これにも言及したほが良かね?」と感じた
部分とかなワケで、あくまでもワタクシ1個人の見解でして、
百田さんの表現を上から目線で否定するようなモノでは決して
ございません。さらに、百田氏ご本人が虎ハチ内でも明言して
おられましたが、全14章のうち特に読んでもらいたいという
第12章(敗戦と占領)~第13章(日本の復興)~最終章(平成) の
主テーマからみれば、どうでもよい枝葉末節な事柄ばかりとも
言えますがw、まぁ以下どうぞ
(下線部は百田本「国紀」からの引用およびその要約です)。
まずは平氏に関することです。平安時代に坂東(関東のことを
平安期には「坂東/バンドウ」と呼んでた事実も百田国紀にヒトコト
書いて欲しかったかも)の各地の領主として根付いた武士の
主流は平氏だったわけで、坂東八平氏(バンドウハチヘイシ。
千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏など )
なんて呼称まであったというのに、それに全く触れてないのは、
まぁ関西人の百田さんらしくて?良いとしても、
P79『武士の台頭』の項で、1028年に源頼信が平忠常の乱を鎮圧して
以降、平氏は関東での勢力を失うことになる、という表現には
違和感を憶えます。坂東各地の領主にはあいかわらず平氏一族が多く、
その坂東各地の平氏も、他の坂東の源氏や藤原氏の武士と共に、
清和源氏のそのまた河内源氏の嫡流を坂東武士団の棟梁として
いただくことにした、というのが実情かと認識しております。
その数十年後の「前九年の役(1051年)、後三年の役(1083年)」
(百田国紀では「前九年合戦、後三年合戦」と表記)で百田国紀の言う
奥州を鎮圧した「源氏の武士団」も部隊長の多くは坂東平氏ですよ
(まぁ元寇の弘安の役で、元軍の指揮官クラスはモンゴル人ですが、
兵の大多数はコリアンとシナ人でしたって話ほどではないにせよ、
後三年の役で名をあげた源義家の軍勢は平氏・源氏・藤原氏その他
寄せ集めの「東国武士団」なわけで、源氏オンリー軍団ではありません)。
さらにその約100年後、1180年代の源平合戦における源頼朝方の
武士団も約半数は平氏ですよ。北条、三浦、畠山、熊谷、上総、梶原も
みんな実は平氏なんです。ザックリいえば頼朝の軍は平氏が4割、
源氏3割、藤原氏2割、その他1割ってな感じだったのです。なので、
源平合戦とは言いますが、その実態は源頼朝を棟梁とする東国武士団
vs平家(平氏の中の伊勢平氏の、都で政権を掌握した清盛一族)&
その西国シンパてな戦だったワケで、源氏方には東国の平氏や藤原氏
の武士もいるし、平家方にも西国の源氏や藤原氏の武士がいたのです。
百田国紀P89『平氏の没落』の項で、壇ノ浦で平氏は滅亡、と
ありますが、滅亡したのは平氏の中の平家であって、平氏全体は
滅亡などしてません。百田さんはなんで平家という呼称を全く
使わなかったのかな? まさか平氏と平家の違いを 知 ら な か っ た
なんて事は、百田さん程の方に限って あ り え ん 事 とは思うので、
単に使い分けが面倒だったのかな? スパゲティならスパゲティと
言えばいいのに、パスタとしか言わない人wみたいな事ですかね?
平氏をパスタ全体とすれば、平家はスパゲティですよ。と書いても、
そもそもパスタとスパゲティの関係を正しく理解してない人が
大杉るので、この例えはホント絶妙かもw。そもそも百田国紀P89で
引用されてる“祇園精舎の鐘の声~”で始まる軍記文学の題名も
「平家物語」であって、決して「平氏物語」ではありません。
この世の栄華を極めたのち、瞬く間に滅亡したのは平家であって
平氏ではない事の、これが何より証拠?wです。壇ノ浦の戦いで
平家を滅ぼした義経方の軍勢にも平氏の武士は沢山いたのです。
壇ノ浦で“平氏”が滅んだことにしておきたい?w百田さんは、
P96『「一所懸命」と「いざ鎌倉」』の項で、足利や新田の苗字は
地名から取っただけで姓は源だ、とだけ書いてますが本来なら同様に
領地名を名乗ってる三浦家の姓は平、比企家の姓は藤原、などと
源氏以外の例も1つ2つ添えるのが自然だと思います。鎌倉幕府の
源氏将軍が3代で潰えたあとの幕府を110余年も執権として運営し、
蒙古襲来も跳ね除けて日本を守りぬいた北条家は、元は伊豆の
北条を治める1平氏だった事にも百田国紀ではヒトコトも触れて
ませんしね。因みに源氏将軍3代(頼朝・頼家・実朝)の後の鎌倉幕府の
将軍は、頼朝の遠縁の者として京の五摂家(有力公家)の九条家から
九条(藤原)頼経を4代将軍に迎え、その子5代・頼嗣との2名は
摂家将軍と呼ばれ、その後の6代・宗尊親王から最後の9代・守邦親王
までの4名は朝廷から、お飾り的な将軍として迎え入れられた
皇族(親王)で、宮(ミヤ)将軍(または親王将軍)と呼ばれてます。
しかし百田国紀では、摂家将軍・宮将軍にヒトコトもありませんね。
僅か500ページでの通史で宮将軍ごときwに行を割く余裕など無い、
とのご判断でしょう。しかし、室町幕府の将軍は15代まで、
江戸幕府の将軍も15代まで続いたことは誰でも知ってますが、
鎌倉幕府の将軍は源氏3代で終わらず、実は摂家将軍と宮将軍とで
9代まで続いた事を知らない人大杉なので、徳川14代将軍家茂クラス
程度(失礼)の人物像について、破格の?w丸1ページ(P241~242)も
割く愛?wが百田さんにお有りならw、その愛?wの一部をせめて
鎌倉の摂家将軍&宮将軍に6名一括で良いから、たった1~2行で
良いから、まわして欲しかったかもw。実は摂家将軍~宮将軍
そのものより、それらお飾り将軍を奉じて幕府執権として日本を
約1世紀も治め、当時世界最強の大帝国だった元(蒙古)の侵略にも
屈せず、撃退勝利した北条家をもっと評価してほしかったですね。
P96の「いざ鎌倉」に関するクダリ、何やら源氏の美談ぽく
百田国紀では書かれてますが、謡曲「鉢ノ木」では、「いざ鎌倉」の
号令をうけた貧乏御家人・佐野常代が痩せ馬に乗って真っ先に鎌倉に
馳せ参じると、そこに現れた者は、かつて雪の夜に鉢の木まで燃して
一宿一飯を与えてあげた旅の僧侶。その正体はなんと、先の執権・
北条時頼公なるぞ~。時頼から忠義の誠を称えられた佐野は、
不当な訴えに負けて取りあげられていた領地も取り戻してもらい、
目出度し目出度しってハナシですよ。北条は平氏。源氏3代将軍実朝
亡き後の鎌倉幕府は、尼将軍とも呼ばれた北条政子(頼朝の妻にして
初代執権・北条時房の娘で、頼家と実朝の母)の弟、2代執権・義時から
16代執権・守時まで百十余年続く、実は平氏長期政権だったのです。
が、百田さんにはそのような認識はどうやら無さげですね。
北条家は平氏を詐称してたという学者もいるようですが、5代以上も
続く武家なら普通、女系も含めて遡れば平氏源氏藤原氏のどれにも
辿り着けちゃいます。源平藤橘(後述)の何姓を名乗りたいかで、
系図を男系で繋がるよう微修正wし、要は名乗ったもん勝ちwみたい
所もあるのです。何姓でも結局は同じ皇統には繋がる親戚ですよw。
源氏にのみ詳しく触れて平氏スルーの百田さんは、ひょっとして
単に源氏が好きで、平氏が嫌いなのかな?w
清盛入道と完全に同じヘアスタイルなのにねぇwww
P167『江戸幕府』の〈コラム〉でも、家康は系譜を書き換え、自分の
祖父は源氏の流れを汲んでるとした、と百田さんは書いてるのに、
信長が平氏を自称してたことは避けるかのようにw、百田さんは
触れてませんよね。同P167~168で、徳川将軍も松平一族も
公式文書や朝廷に出す手紙には、源〇〇と署名してる、という
主旨のことを百田さんは書いてますが、鎌倉幕府の執権北条家も
公式文書には、平〇〇と書いていたことには触れてませんしね。
さらに、なぜ家康は源氏を名乗ったかというP167のコラムで、
源平交代説にヒトコトも触れてないのは片手落ちの感もあります。
源平交代説(源平交代論)とは戦国期に生まれた俗説にすぎませんが、
清盛一族(平氏)→鎌倉幕府3代(源氏)→執権北条家(平氏)→
後醍醐天皇親政→足利室町幕府(源氏)→織田(平氏を自称)→
豊臣(新姓)→徳川江戸幕府(源氏を自称) という流れの事で、
平氏に取って替わって政治を執り行う者は源氏であるべきで、
その源氏政権に替わる者は平氏であるべき、との考え方です。
日本史が娯楽ドラマ的に楽しみ易くなる?迷法則wなのです。
ちなみに足利6代将軍 義教を殺害した赤松満祐(自称源氏)や、
同13代 義輝を殺害した三好三人衆(源氏)は、ハナから自らが天下に
号令する立場になる気など無く、すぐ足利一族の中から別の新将軍を
奉じてるので天下人とは認知してません。足利12代将軍 義晴を
京から追放して10数年も畿内を掌握していた三好長慶も、足利幕府を
滅ぼす意図まではなく、畿内ローカル政権の主だっただけです。
平氏を自称してた織田信長を討って天下人となった明智光秀も
源氏ですが、わずか13日の天下なので省略しました。
光秀を討った羽柴秀吉は、主君信長が平氏を名乗ってたので
マネして平氏を称した時期もありますが、源平藤橘(ゲンペイトウキツ。
武士なら祖先がそのどれかであってほしい、源・平・藤原・橘の4姓)
のどれでもない百姓出がバレバレだったので、豊臣という全く新しい
姓を朝廷から賜ったのでした。にしても、源平交代説にも
源平藤橘にもヒトコトも触れない百田さんは、平氏を軽視~無視しての
源氏偏重w、露骨な源氏贔屓wにも見えてきましたけどw、
ワザとなら百田家の祖先が平氏に家を焼かれたとかのウラミでも
あるんですかね?w 無意識でしたら、それはそれで怖いかもwww
とにかく何度もいいますが、平氏は壇ノ浦で滅亡などしてません。
滅んだのは平氏の一部の、平家と呼ばれた清盛一族のみです。
鎌倉時代の元寇・文永の役の際に壱岐を治めてたのは平景隆といい、
蒙古高麗3万の大軍に対して手勢わずか100名で壮絶に戦い、
大宰府へ急を知らせるための伝令以外、景隆一門は全滅しました。
その元寇当時の8代執権・北条時宗の側近には平頼綱という者がおり、
時宗の死後、政敵の安達泰盛を討って幕府の実権を握るも、娘婿の
9代執権・北条貞時に誅殺されました。何が言いたいかというと、
鎌倉時代にも堂々とタイラを名乗り、歴史のオモテ舞台にその名を
しっかり残してる平氏もちゃんといるので、壇ノ浦で滅亡したのは
平氏じゃなくて平家なんだと、ちゃんと区別しましょうって事です。
戦国期に最強といわれた平氏と言えば、越後の龍、毘沙門天の化身
とも呼ばれた長尾景虎(後の上杉謙信)ですよ。長尾家は平安期の
坂東八平氏の1つなんです。しかし長尾景虎が足利一門の関東管領・
上杉家(源氏)の養子となり、名を上杉政虎と改めたその瞬間、
平氏から源氏にいきなり変身したのですw。しかしナポリタンは
あくまでもスパゲティですよ。ナポリタン・スパゲティーでも
スパゲッティ・ナポリタンでもいいけど、ナポリタン・パスタじゃ全然
ダメでしょw。なんのこっちゃw
以上、第1ラウンド終了
以下、第2イニング
信長と光秀に関してです。百田国紀では織田信長を多大に
評価しており、それはそれで結構な事なのですが、尾張の織田家の
ルーツは、実は越前の藤原氏らしいにもかかわらず、信長は
源氏の足利将軍に取って代わるため、源平交代説にのっとり、
舞の十八番は「敦盛」(←平家)だとアピールしつつw、織田家の姓は
平だと主張してたことに関し、百田国紀ではヒトコトも無しです。
本州中央部を制覇し、足利(室町)幕府を滅ぼした信長について
百田国紀は「いかに信長という人物が破天荒な男であったか」(P141)、
「信長の出現がなければ、戦国時代はあと半世紀は続いていたのでは
ないか」(P142)、「古い社会通念に縛られない、きわめて近代的な
合理主義に基づく考え方をする人物だった。旧来の制度やしきたりを
いくつも廃し...身分や出自に囚われることなく...新しいものが好きで
...突然変異のような存在」(P143)と評してます。
そんな信長が、もし本能寺の変が起きずに長生きしてたら、という
仮定にまでは百田さんは踏み込んでません。流石です。明らかに
信長を高評価しつつも、愛国保守派な百田さんにとっては
“想像もしたくないこと”には触れてないのです。しかし普通に上述の
性格や志向を考えれば信長はヤラカシたでしょ。天皇家の廃絶です。
ワタクシ個人は信長ならやりかねん、と思います。百田国紀では
触れてませんが、信長は安土城内の庭石のひとつを自らの御神体
と定め、家臣領民に拝ませたというカルトな逸話があり、それが
事実なら信長自身が畏れ多くも現人神(アラヒトガミ)を気取ってた?
という事で、神の子孫たる皇統の権威を貶める行いですよ。さらに
本能寺の変の少し前に朝廷から信長は、関白の座に就くようにと
要請されたのに辞退したはず。秀吉はホイホイ喜んで関白になり、
朝廷の権威のもとで天下人に成ったというのに、おそらく信長は
もはや朝廷の権威など不要!とまで考えてたフシがあるのです。
当時の暦は、朝廷がその権威のもとに閏月などを定めてましたが、
信長はその権限を朝廷から奪い取ることも予定してました。
この辺の事に百田さんは上手く触れる事なくw“大魔王”を絶賛とは
流石ベストセラー連発作家です(ワタクシ1個人の深読みですがね)。
イエズス会の宣教師が信長のことを褒めそやして書き残してるのは
当然ですよ。南蛮の風物が大好きな信長はキリスト教の布教を認め、
京の都の町中にまで教会の建設を許可してくれたんですからね。
ヤツらにしてみれば信長は、日本侵略の拠点を都に作らせてくれる
マヌケなオヒトヨシでw、おだててヨイショして利用しまくるべき
権力者だったんですよ。そんな南蛮勢力(ポルトガルとスペイン)に
とっては都合のいい信長サマを、一夜にして討滅した光秀の事を
宣教師がボロクソに悪く書くのは当然で、光秀への悪意に満ちた
「裏切りや密会を好み...残酷...謀略の達人」(P144)という宣教師評を
百田さんともあろう方が「なるほど」などと、そのまま受け入れて
光秀に関しては終了ですw。だがちょっと待って欲しいw。
「裏切、密会、残酷、謀略」なんてヒトカドの戦国武将ならみんな普通
そうゆうもんでしょが。信長・秀吉・家康の3人にも全部そのまま
当てはまりますよw。信長の密会相手といえば尾張では生駒吉乃♀、
安土では森蘭丸♂です。疑惑は深まった!w
ってそういう密会ちゃいまんがな。www
光秀の領地だった近江坂本や丹波の亀山(亀岡)・福知山で光秀は、今日も
善政を敷いた名君として慕われてることを百田さんともあろう方が
知らないワケないとは思うのに、そういう事に1行も触れてないのは
いかに百田さんの信長愛?が強杉るかって事にしておきませうw。
江戸期・元禄年間の忠臣蔵として有名な四十七士のほぼテロに関し
百田国紀はP188『赤穂事件』で丸1ページ費やしてますが、
芝居ドラマじゃ決まって悪役の吉良上野介が三河吉良の領民には
名君として慕われてた事にも1行もありませんね。まさか
百田さんほどの方が吉良上野介が今も三河の吉良じゃ愛されてる
事実を知らないワケないでしょうから、きっと百田さんは余程の
赤穂浪士贔屓なんでせうw。しかし、吉良サイドや明智サイドから、
はたまた平氏サイドから見える景色にも少しは触れておかないと、
虎ノ門ファミリーが常日頃、その偏向ぶりを批判してる
地上波テレビや、朝日毎日東京新聞・沖縄2紙・共同通信といった
偏向マスゴミをその偏向で批判できなくなってしまいますよ。
偏光を防ごう! 百田先生の後光となる反射光wならOK!
以上、第2イニング終了
以下、最終フレーム
まずはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。百田国紀の
文中に外国人の名前が登場する際、大抵はファースト・ネームも国籍も
添えられてるんですが、なぜかシーボルトの場合、この苗字のみ。
P218『シーボルト事件と蛮社の獄』で読む限り、オランダ商館付きの
医師...日本地図の縮図をオランダに持ち帰ろうとした...
オランダのスパイだったとする説があるが...とのことで、
これを読む限りシーボルトは、てっきりオランダ人だと認識して
しまいがちですが、百田さんはどこにもハッキリ「オランダ人」
だとは書いてないのです。実はドイツ人だったからですよ。
シーボルトは初来日の際、出島で入国審査?の役人から
「そなたのオランダ語は少し変じゃのう」と言われ、咄嗟にシーボルトは
「私は“山オランダ人”なもんでナマっとるんダス」wと答え、役人は
「さようか」で済ませ、似非オランダ人なのがバレずに入国できた、
なんて逸話をどこかで聞いた事があります。ってこの話の面白いのは
海抜マイナスの平坦な低地だらけのオランダに、訛りも強くなるよな
山地なんて、どこにもねーだろがって点です。ライン川下流に住む
オランダ人から見たら上流に住むドイツ人は山オランダ人ってコレ、
シーボルト流ジョークなんでしょね、きっとw。しかし、
なんでドイツ人ならドイツ人と書けばいいのに百田さんは
書かなかったんですかねぇ。他の幕末維新に来日した米英仏人に
関しては、百田さんはちゃんと何ジンか明記してるんですよ。
P278~280の〈コラム〉では駐日イギリス総領事ラザフォード・
オールコック、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード、
アメリカの動物学者エドワード・モースの3人は国名つきで
紹介してるのに、同じコラムで考古学者のハインリヒ・シュリーマン
だけが国籍未記載。ドイツ人なのに「ドイツの考古学者」だとは
どこにも書いてないんですよ。単に百田さんはドイツ人の学者が
嫌いだとか言う話wなら、最初からシュリーマン来日にヒトコトも
言及しなきゃいいだけの事なので、まったく不思議です
(500頁の日本史本でまずシーボルトはスルーできませんがねw)。
考えられることは、シーボルトもシュリーマンもドイツ民族だけど
ドイツ国籍ではなかった、てかドイツって国が1871年の統一前で
まだ無かった時代に生まれて死んだ人なら、厳密なことを言うと
ドイツ人だとは断定できないので明記を避けたってことでしょうか。
ぐぐったらシーボルトは、正確には神聖ローマ帝国(現ドイツ)の
ヴュルツベルク出身で、バイエルン王国(ドイツ南西部)の
ミュンヘンで死去。シュリーマンはプロイセン王国(ドイツ北東部)の
ノイブコウ出身で、1860年代にギリシアに移住。1890年に
ナポリ(伊)で死去とのこと。ご両人とも統一ドイツ(1871~)で
暮らした事は、どうやら無い模様。
アンチ百田の左巻が、重箱の隅をつついたよな揚げ足取りを
ネット上で繰り返す事も当初から予測されてたし、左巻に最初から
エサは与えないようにしようという事なのかもしれませんが、
常識的に神聖ローマ帝国期もその崩壊後の分立諸邦期も、
現ドイツ地域の出身者ならドイツ人と明記してなんら問題ないと
思いますよ。バロック音楽~古典派~ロマン派のドイツ人作曲家の
多くも、厳密に言えば神聖ローマ帝国人か、その崩壊後の諸邦の
国民なワケですが、バッハもベートーベンもワグナーも世間では
常識的にみんなドイツ人と表記してますからね(って、そういえば
百田さんのクラシック作曲家に関する本も今度よんどきます)。
百田国紀P303の〈コラム〉で君が代についての記述がありますが、
古今和歌集にある詠み人知らずの歌に1880年、宮内省雅楽課が
旋律を付け、ドイツ人音楽教師フランツ・エッケルトが洋楽風に
編曲した、とあります。ここでやっと百田さんにドイツ人だと
明言されてるwこのエッケルト、明治の帝国陸軍から現在の陸自でも
使われてる傑作マーチ「陸軍分列行進曲」(扶桑歌/抜刀隊)の編曲者でも
あります(作曲者は来日フランス人のシャルル・ルルー)。実は
東洋センクスでもカヴァーしてるんです。そのうち音源化しますね。
百田国紀に話を戻しますと、来日外国人ではありませんが、P339で
「経済学者のマルクス」として紹介されてる共産主義の生みの親、
カール・マルクスもドイツ人なのに、どこのどいつか百田さんは
また明記してません。で、ぐぐったら1818年プロイセン出身の
ユダヤ系ドイツ人で、1845年プロイセン国籍離脱。それ以降は
無国籍のまま欧州を転々とし、英国で1883年死去とのこと。
これなら百田さんが何ジンか書かなかったのもまぁ理解できます。
マルクスも曰く「プロレタリアートは無国籍たるべし」とのこと。
だからアカは国を亡ぼしたい売国奴だらけなんですね。www
ワタクシはグローバリズムとかワンワールドに大反対です。
世界がグローバル化すればするほど、各国独自の文化的特徴が
希薄になり、料理も服装も音楽も均一化してしまって、海外旅行を
しても全然おもしろくなくなるはずですよ。
以上、「このヒト何ジン?徳国人(華式)」のコーナーでした。
百田国紀を読んでて「ん?」な所、ページのカドを折り曲げて
あるんです。まだまだあるんですが、テメエ自身でもう
いい加減にしなさい、と言いたくなってきたので、最後に
旗を三つ紹介して、それに関するページを紹介して終わります。
約1世紀も治め、当時世界最強の大帝国だった元(蒙古)の侵略にも
屈せず、撃退勝利した北条家をもっと評価してほしかったですね。
P96の「いざ鎌倉」に関するクダリ、何やら源氏の美談ぽく
百田国紀では書かれてますが、謡曲「鉢ノ木」では、「いざ鎌倉」の
号令をうけた貧乏御家人・佐野常代が痩せ馬に乗って真っ先に鎌倉に
馳せ参じると、そこに現れた者は、かつて雪の夜に鉢の木まで燃して
一宿一飯を与えてあげた旅の僧侶。その正体はなんと、先の執権・
北条時頼公なるぞ~。時頼から忠義の誠を称えられた佐野は、
不当な訴えに負けて取りあげられていた領地も取り戻してもらい、
目出度し目出度しってハナシですよ。北条は平氏。源氏3代将軍実朝
亡き後の鎌倉幕府は、尼将軍とも呼ばれた北条政子(頼朝の妻にして
初代執権・北条時房の娘で、頼家と実朝の母)の弟、2代執権・義時から
16代執権・守時まで百十余年続く、実は平氏長期政権だったのです。
が、百田さんにはそのような認識はどうやら無さげですね。
北条家は平氏を詐称してたという学者もいるようですが、5代以上も
続く武家なら普通、女系も含めて遡れば平氏源氏藤原氏のどれにも
辿り着けちゃいます。源平藤橘(後述)の何姓を名乗りたいかで、
系図を男系で繋がるよう微修正wし、要は名乗ったもん勝ちwみたい
所もあるのです。何姓でも結局は同じ皇統には繋がる親戚ですよw。
源氏にのみ詳しく触れて平氏スルーの百田さんは、ひょっとして
単に源氏が好きで、平氏が嫌いなのかな?w
清盛入道と完全に同じヘアスタイルなのにねぇwww
P167『江戸幕府』の〈コラム〉でも、家康は系譜を書き換え、自分の
祖父は源氏の流れを汲んでるとした、と百田さんは書いてるのに、
信長が平氏を自称してたことは避けるかのようにw、百田さんは
触れてませんよね。同P167~168で、徳川将軍も松平一族も
公式文書や朝廷に出す手紙には、源〇〇と署名してる、という
主旨のことを百田さんは書いてますが、鎌倉幕府の執権北条家も
公式文書には、平〇〇と書いていたことには触れてませんしね。
さらに、なぜ家康は源氏を名乗ったかというP167のコラムで、
源平交代説にヒトコトも触れてないのは片手落ちの感もあります。
源平交代説(源平交代論)とは戦国期に生まれた俗説にすぎませんが、
清盛一族(平氏)→鎌倉幕府3代(源氏)→執権北条家(平氏)→
後醍醐天皇親政→足利室町幕府(源氏)→織田(平氏を自称)→
豊臣(新姓)→徳川江戸幕府(源氏を自称) という流れの事で、
平氏に取って替わって政治を執り行う者は源氏であるべきで、
その源氏政権に替わる者は平氏であるべき、との考え方です。
日本史が娯楽ドラマ的に楽しみ易くなる?迷法則wなのです。
ちなみに足利6代将軍 義教を殺害した赤松満祐(自称源氏)や、
同13代 義輝を殺害した三好三人衆(源氏)は、ハナから自らが天下に
号令する立場になる気など無く、すぐ足利一族の中から別の新将軍を
奉じてるので天下人とは認知してません。足利12代将軍 義晴を
京から追放して10数年も畿内を掌握していた三好長慶も、足利幕府を
滅ぼす意図まではなく、畿内ローカル政権の主だっただけです。
平氏を自称してた織田信長を討って天下人となった明智光秀も
源氏ですが、わずか13日の天下なので省略しました。
光秀を討った羽柴秀吉は、主君信長が平氏を名乗ってたので
マネして平氏を称した時期もありますが、源平藤橘(ゲンペイトウキツ。
武士なら祖先がそのどれかであってほしい、源・平・藤原・橘の4姓)
のどれでもない百姓出がバレバレだったので、豊臣という全く新しい
姓を朝廷から賜ったのでした。にしても、源平交代説にも
源平藤橘にもヒトコトも触れない百田さんは、平氏を軽視~無視しての
源氏偏重w、露骨な源氏贔屓wにも見えてきましたけどw、
ワザとなら百田家の祖先が平氏に家を焼かれたとかのウラミでも
あるんですかね?w 無意識でしたら、それはそれで怖いかもwww
とにかく何度もいいますが、平氏は壇ノ浦で滅亡などしてません。
滅んだのは平氏の一部の、平家と呼ばれた清盛一族のみです。
鎌倉時代の元寇・文永の役の際に壱岐を治めてたのは平景隆といい、
蒙古高麗3万の大軍に対して手勢わずか100名で壮絶に戦い、
大宰府へ急を知らせるための伝令以外、景隆一門は全滅しました。
その元寇当時の8代執権・北条時宗の側近には平頼綱という者がおり、
時宗の死後、政敵の安達泰盛を討って幕府の実権を握るも、娘婿の
9代執権・北条貞時に誅殺されました。何が言いたいかというと、
鎌倉時代にも堂々とタイラを名乗り、歴史のオモテ舞台にその名を
しっかり残してる平氏もちゃんといるので、壇ノ浦で滅亡したのは
平氏じゃなくて平家なんだと、ちゃんと区別しましょうって事です。
戦国期に最強といわれた平氏と言えば、越後の龍、毘沙門天の化身
とも呼ばれた長尾景虎(後の上杉謙信)ですよ。長尾家は平安期の
坂東八平氏の1つなんです。しかし長尾景虎が足利一門の関東管領・
上杉家(源氏)の養子となり、名を上杉政虎と改めたその瞬間、
平氏から源氏にいきなり変身したのですw。しかしナポリタンは
あくまでもスパゲティですよ。ナポリタン・スパゲティーでも
スパゲッティ・ナポリタンでもいいけど、ナポリタン・パスタじゃ全然
ダメでしょw。なんのこっちゃw
以上、第1ラウンド終了
以下、第2イニング
信長と光秀に関してです。百田国紀では織田信長を多大に
評価しており、それはそれで結構な事なのですが、尾張の織田家の
ルーツは、実は越前の藤原氏らしいにもかかわらず、信長は
源氏の足利将軍に取って代わるため、源平交代説にのっとり、
舞の十八番は「敦盛」(←平家)だとアピールしつつw、織田家の姓は
平だと主張してたことに関し、百田国紀ではヒトコトも無しです。
本州中央部を制覇し、足利(室町)幕府を滅ぼした信長について
百田国紀は「いかに信長という人物が破天荒な男であったか」(P141)、
「信長の出現がなければ、戦国時代はあと半世紀は続いていたのでは
ないか」(P142)、「古い社会通念に縛られない、きわめて近代的な
合理主義に基づく考え方をする人物だった。旧来の制度やしきたりを
いくつも廃し...身分や出自に囚われることなく...新しいものが好きで
...突然変異のような存在」(P143)と評してます。
そんな信長が、もし本能寺の変が起きずに長生きしてたら、という
仮定にまでは百田さんは踏み込んでません。流石です。明らかに
信長を高評価しつつも、愛国保守派な百田さんにとっては
“想像もしたくないこと”には触れてないのです。しかし普通に上述の
性格や志向を考えれば信長はヤラカシたでしょ。天皇家の廃絶です。
ワタクシ個人は信長ならやりかねん、と思います。百田国紀では
触れてませんが、信長は安土城内の庭石のひとつを自らの御神体
と定め、家臣領民に拝ませたというカルトな逸話があり、それが
事実なら信長自身が畏れ多くも現人神(アラヒトガミ)を気取ってた?
という事で、神の子孫たる皇統の権威を貶める行いですよ。さらに
本能寺の変の少し前に朝廷から信長は、関白の座に就くようにと
要請されたのに辞退したはず。秀吉はホイホイ喜んで関白になり、
朝廷の権威のもとで天下人に成ったというのに、おそらく信長は
もはや朝廷の権威など不要!とまで考えてたフシがあるのです。
当時の暦は、朝廷がその権威のもとに閏月などを定めてましたが、
信長はその権限を朝廷から奪い取ることも予定してました。
この辺の事に百田さんは上手く触れる事なくw“大魔王”を絶賛とは
流石ベストセラー連発作家です(ワタクシ1個人の深読みですがね)。
イエズス会の宣教師が信長のことを褒めそやして書き残してるのは
当然ですよ。南蛮の風物が大好きな信長はキリスト教の布教を認め、
京の都の町中にまで教会の建設を許可してくれたんですからね。
ヤツらにしてみれば信長は、日本侵略の拠点を都に作らせてくれる
マヌケなオヒトヨシでw、おだててヨイショして利用しまくるべき
権力者だったんですよ。そんな南蛮勢力(ポルトガルとスペイン)に
とっては都合のいい信長サマを、一夜にして討滅した光秀の事を
宣教師がボロクソに悪く書くのは当然で、光秀への悪意に満ちた
「裏切りや密会を好み...残酷...謀略の達人」(P144)という宣教師評を
百田さんともあろう方が「なるほど」などと、そのまま受け入れて
光秀に関しては終了ですw。だがちょっと待って欲しいw。
「裏切、密会、残酷、謀略」なんてヒトカドの戦国武将ならみんな普通
そうゆうもんでしょが。信長・秀吉・家康の3人にも全部そのまま
当てはまりますよw。信長の密会相手といえば尾張では生駒吉乃♀、
安土では森蘭丸♂です。疑惑は深まった!w
ってそういう密会ちゃいまんがな。www
光秀の領地だった近江坂本や丹波の亀山(亀岡)・福知山で光秀は、今日も
善政を敷いた名君として慕われてることを百田さんともあろう方が
知らないワケないとは思うのに、そういう事に1行も触れてないのは
いかに百田さんの信長愛?が強杉るかって事にしておきませうw。
江戸期・元禄年間の忠臣蔵として有名な四十七士のほぼテロに関し
百田国紀はP188『赤穂事件』で丸1ページ費やしてますが、
芝居ドラマじゃ決まって悪役の吉良上野介が三河吉良の領民には
名君として慕われてた事にも1行もありませんね。まさか
百田さんほどの方が吉良上野介が今も三河の吉良じゃ愛されてる
事実を知らないワケないでしょうから、きっと百田さんは余程の
赤穂浪士贔屓なんでせうw。しかし、吉良サイドや明智サイドから、
はたまた平氏サイドから見える景色にも少しは触れておかないと、
虎ノ門ファミリーが常日頃、その偏向ぶりを批判してる
地上波テレビや、朝日毎日東京新聞・沖縄2紙・共同通信といった
偏向マスゴミをその偏向で批判できなくなってしまいますよ。
偏光を防ごう! 百田先生の後光となる反射光wならOK!
以上、第2イニング終了
以下、最終フレーム
まずはフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。百田国紀の
文中に外国人の名前が登場する際、大抵はファースト・ネームも国籍も
添えられてるんですが、なぜかシーボルトの場合、この苗字のみ。
P218『シーボルト事件と蛮社の獄』で読む限り、オランダ商館付きの
医師...日本地図の縮図をオランダに持ち帰ろうとした...
オランダのスパイだったとする説があるが...とのことで、
これを読む限りシーボルトは、てっきりオランダ人だと認識して
しまいがちですが、百田さんはどこにもハッキリ「オランダ人」
だとは書いてないのです。実はドイツ人だったからですよ。
シーボルトは初来日の際、出島で入国審査?の役人から
「そなたのオランダ語は少し変じゃのう」と言われ、咄嗟にシーボルトは
「私は“山オランダ人”なもんでナマっとるんダス」wと答え、役人は
「さようか」で済ませ、似非オランダ人なのがバレずに入国できた、
なんて逸話をどこかで聞いた事があります。ってこの話の面白いのは
海抜マイナスの平坦な低地だらけのオランダに、訛りも強くなるよな
山地なんて、どこにもねーだろがって点です。ライン川下流に住む
オランダ人から見たら上流に住むドイツ人は山オランダ人ってコレ、
シーボルト流ジョークなんでしょね、きっとw。しかし、
なんでドイツ人ならドイツ人と書けばいいのに百田さんは
書かなかったんですかねぇ。他の幕末維新に来日した米英仏人に
関しては、百田さんはちゃんと何ジンか明記してるんですよ。
P278~280の〈コラム〉では駐日イギリス総領事ラザフォード・
オールコック、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード、
アメリカの動物学者エドワード・モースの3人は国名つきで
紹介してるのに、同じコラムで考古学者のハインリヒ・シュリーマン
だけが国籍未記載。ドイツ人なのに「ドイツの考古学者」だとは
どこにも書いてないんですよ。単に百田さんはドイツ人の学者が
嫌いだとか言う話wなら、最初からシュリーマン来日にヒトコトも
言及しなきゃいいだけの事なので、まったく不思議です
(500頁の日本史本でまずシーボルトはスルーできませんがねw)。
考えられることは、シーボルトもシュリーマンもドイツ民族だけど
ドイツ国籍ではなかった、てかドイツって国が1871年の統一前で
まだ無かった時代に生まれて死んだ人なら、厳密なことを言うと
ドイツ人だとは断定できないので明記を避けたってことでしょうか。
ぐぐったらシーボルトは、正確には神聖ローマ帝国(現ドイツ)の
ヴュルツベルク出身で、バイエルン王国(ドイツ南西部)の
ミュンヘンで死去。シュリーマンはプロイセン王国(ドイツ北東部)の
ノイブコウ出身で、1860年代にギリシアに移住。1890年に
ナポリ(伊)で死去とのこと。ご両人とも統一ドイツ(1871~)で
暮らした事は、どうやら無い模様。
アンチ百田の左巻が、重箱の隅をつついたよな揚げ足取りを
ネット上で繰り返す事も当初から予測されてたし、左巻に最初から
エサは与えないようにしようという事なのかもしれませんが、
常識的に神聖ローマ帝国期もその崩壊後の分立諸邦期も、
現ドイツ地域の出身者ならドイツ人と明記してなんら問題ないと
思いますよ。バロック音楽~古典派~ロマン派のドイツ人作曲家の
多くも、厳密に言えば神聖ローマ帝国人か、その崩壊後の諸邦の
国民なワケですが、バッハもベートーベンもワグナーも世間では
常識的にみんなドイツ人と表記してますからね(って、そういえば
百田さんのクラシック作曲家に関する本も今度よんどきます)。
百田国紀P303の〈コラム〉で君が代についての記述がありますが、
古今和歌集にある詠み人知らずの歌に1880年、宮内省雅楽課が
旋律を付け、ドイツ人音楽教師フランツ・エッケルトが洋楽風に
編曲した、とあります。ここでやっと百田さんにドイツ人だと
明言されてるwこのエッケルト、明治の帝国陸軍から現在の陸自でも
使われてる傑作マーチ「陸軍分列行進曲」(扶桑歌/抜刀隊)の編曲者でも
あります(作曲者は来日フランス人のシャルル・ルルー)。実は
東洋センクスでもカヴァーしてるんです。そのうち音源化しますね。
百田国紀に話を戻しますと、来日外国人ではありませんが、P339で
「経済学者のマルクス」として紹介されてる共産主義の生みの親、
カール・マルクスもドイツ人なのに、どこのどいつか百田さんは
また明記してません。で、ぐぐったら1818年プロイセン出身の
ユダヤ系ドイツ人で、1845年プロイセン国籍離脱。それ以降は
無国籍のまま欧州を転々とし、英国で1883年死去とのこと。
これなら百田さんが何ジンか書かなかったのもまぁ理解できます。
マルクスも曰く「プロレタリアートは無国籍たるべし」とのこと。
だからアカは国を亡ぼしたい売国奴だらけなんですね。www
ワタクシはグローバリズムとかワンワールドに大反対です。
世界がグローバル化すればするほど、各国独自の文化的特徴が
希薄になり、料理も服装も音楽も均一化してしまって、海外旅行を
しても全然おもしろくなくなるはずですよ。
以上、「このヒト何ジン?徳国人(華式)」のコーナーでした。
百田国紀を読んでて「ん?」な所、ページのカドを折り曲げて
あるんです。まだまだあるんですが、テメエ自身でもう
いい加減にしなさい、と言いたくなってきたので、最後に
旗を三つ紹介して、それに関するページを紹介して終わります。
↑ベトナム戦争中の北べトナム (ベトナム民主共和国)および 1976年に南北統一した 現在のベトナム社会主義共和国の国旗 |
↑ベトナム戦争中の南ベトナム (ベトナム共和国)の国旗 1975年に敗戦滅亡 |
↑ベトナム戦争中のベトコン (南ベトナム解放民族戦線)の旗 1975年、南ベトナム政府軍に勝利し 翌1976年、北ベトナムと統一して解散 |
百田国紀P476『大国のはざまで揺れる日本』の項で、
1955から始まったベトナム戦争は、最初は植民地支配を復活
させようとするフランスとベトナムの戦いだったが、その後
「アメリカ・南ベトナム」対「北ベトナム」の戦いになった。
とありますが、南ベトナム国内の反米・反政府の共産ゲリラ、
ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)についてヒトコトも
ないのは、いただけません。ベトコン(越共,Viet Cong)とは
ベトナム・コンサン(越南共産)の略で、米兵はV.C.とも呼んだ
反米の南ベトナム(以下、南越)人ゲリラです。農村の一般農民に
紛れ込んでるため、南越政府軍・米軍・韓国軍によるベトコン掃討戦
においては無関係な村民にも多大な犠牲を強いたのは事実です。
さらに韓国軍は米軍への援軍として参戦したにもかかわらず、
戦闘そっちのけで、非ベトコン支配エリア(つまり友軍である
南越政府軍のコントロール地域)の農民に対しても強姦掠奪殺人を
繰り返し、さらには慰安所を開設し、拉致してきたべトナム女性を
性奴隷にしてたのです。韓国の官民が国をあげて日本に対して
謝罪と賠償を求めてきた、軍による女性拉致と性奴隷強要というのは、
実はベトナムで韓国軍が実際にやっていたことなのです。韓国は
テメーらが加害者としてベトナムでやった犯罪行為を棚にあげ、
逆にそれと同じ事を日本軍によって70余年前に韓国人がやられた、
などと大ウソをつき、被害者ヅラしてるんです。平気でそんな嘘が
吐ける連中の面の皮の厚さにはホント呆れます。
強姦や韓国軍慰安所での性奴隷強要で産まれた韓越混血孤児(いわば
韓国兵の“ヤリ逃げ”遺児)である“ライダイハン”がベトナムには
1万~3万人もおり(すでに成人)、差別対象にされてベトナムでは
長年の社会問題になってきたことを韓国に糾弾する意味もこめて、
米軍介入後のベトナム戦争の同盟国・交戦国をまとめ直すと
「南ベトナム・米国・韓国」 対 「ベトコン・北ベトナム」となります。
百田さんも、できればこのように書くべきでしたね。
百田国紀のmy検証?、とりあえずもう、ここいらでウチドメとします。
あっ、最後の最後wに音楽屋のハシクレとして、
ある特定邦題しか知らなかった有名曲のオリジナル・タイトルを
百田国紀で教えていただいたというその曲のツベURLでも
貼っておきます↓(開演0'14")
https://www.youtube.com/watch?v=mry1wh8qr2g
ワタクシ、中学時代はブラスバンド部でテナーサックスだったん
ですが、毎年の体育祭の表彰式で、この曲も吹いてましたよ。
楽譜に書いてあったタイトルは「得賞歌」。ちゃんと楽譜に
ヘンデル作曲と書いてあったのも、しっかり記憶にあります。
というのも小学校の運動会でも閉会式にレコードwで流れてたので
ドリフがニンニキニンニンw言う前から表彰式の曲として
認識してたわけですが、中学でブラバンに入ってコレの楽譜見て
「なに~、ヘンデルの曲だったのかー」と驚いたので覚えてるんです。
百田国紀P480どアタマ1行目から、この曲の話題なワケですが、
「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲のオラトリオ「ユダス・マカベウス」
の中の一曲) って百田さん、ヘンデルの前にまた「ドイツ出身」が
ぬけとりまんがなw。ってもう、やめときまっさw
よいおとしを~
1955から始まったベトナム戦争は、最初は植民地支配を復活
させようとするフランスとベトナムの戦いだったが、その後
「アメリカ・南ベトナム」対「北ベトナム」の戦いになった。
とありますが、南ベトナム国内の反米・反政府の共産ゲリラ、
ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)についてヒトコトも
ないのは、いただけません。ベトコン(越共,Viet Cong)とは
ベトナム・コンサン(越南共産)の略で、米兵はV.C.とも呼んだ
反米の南ベトナム(以下、南越)人ゲリラです。農村の一般農民に
紛れ込んでるため、南越政府軍・米軍・韓国軍によるベトコン掃討戦
においては無関係な村民にも多大な犠牲を強いたのは事実です。
さらに韓国軍は米軍への援軍として参戦したにもかかわらず、
戦闘そっちのけで、非ベトコン支配エリア(つまり友軍である
南越政府軍のコントロール地域)の農民に対しても強姦掠奪殺人を
繰り返し、さらには慰安所を開設し、拉致してきたべトナム女性を
性奴隷にしてたのです。韓国の官民が国をあげて日本に対して
謝罪と賠償を求めてきた、軍による女性拉致と性奴隷強要というのは、
実はベトナムで韓国軍が実際にやっていたことなのです。韓国は
テメーらが加害者としてベトナムでやった犯罪行為を棚にあげ、
逆にそれと同じ事を日本軍によって70余年前に韓国人がやられた、
などと大ウソをつき、被害者ヅラしてるんです。平気でそんな嘘が
吐ける連中の面の皮の厚さにはホント呆れます。
強姦や韓国軍慰安所での性奴隷強要で産まれた韓越混血孤児(いわば
韓国兵の“ヤリ逃げ”遺児)である“ライダイハン”がベトナムには
1万~3万人もおり(すでに成人)、差別対象にされてベトナムでは
長年の社会問題になってきたことを韓国に糾弾する意味もこめて、
米軍介入後のベトナム戦争の同盟国・交戦国をまとめ直すと
「南ベトナム・米国・韓国」 対 「ベトコン・北ベトナム」となります。
百田さんも、できればこのように書くべきでしたね。
百田国紀のmy検証?、とりあえずもう、ここいらでウチドメとします。
あっ、最後の最後wに音楽屋のハシクレとして、
ある特定邦題しか知らなかった有名曲のオリジナル・タイトルを
百田国紀で教えていただいたというその曲のツベURLでも
貼っておきます↓(開演0'14")
https://www.youtube.com/watch?v=mry1wh8qr2g
ワタクシ、中学時代はブラスバンド部でテナーサックスだったん
ですが、毎年の体育祭の表彰式で、この曲も吹いてましたよ。
楽譜に書いてあったタイトルは「得賞歌」。ちゃんと楽譜に
ヘンデル作曲と書いてあったのも、しっかり記憶にあります。
というのも小学校の運動会でも閉会式にレコードwで流れてたので
ドリフがニンニキニンニンw言う前から表彰式の曲として
認識してたわけですが、中学でブラバンに入ってコレの楽譜見て
「なに~、ヘンデルの曲だったのかー」と驚いたので覚えてるんです。
百田国紀P480どアタマ1行目から、この曲の話題なワケですが、
「見よ、勇者は帰る」(ヘンデル作曲のオラトリオ「ユダス・マカベウス」
の中の一曲) って百田さん、ヘンデルの前にまた「ドイツ出身」が
ぬけとりまんがなw。ってもう、やめときまっさw
よいおとしを~