まいど、ワタクシがラスちック・ストむプの大御所 カッコ自分で言うな
カッコ閉じw のダビス・Kakonohito!?w です。
大御所といっても各分野、各時代に色々おられるでしょうが、
1605(慶長10)年に江戸幕府の将軍職を息子の徳川秀忠(ヒデタダ)に譲り、
1616(元和2)年に駿河(スルガ/駿州[スンシュウ]/現静岡県東部)の
駿府(スンプ/現静岡市)で死去するまでの11年間、「先代の公方様(クボウサマ=
将軍様=御所様[ゴショサマ])」という意味で日本中から「大御所様(オオゴショサマ)」と
呼ばれてた絶対的存在といえば徳川家康(イエヤス)、亡くなってすぐ
東照大権現(トウショウダイゴンゲン)という神として祀られた神君・家康公ですよ。
遺体は駿府すぐ近くの久能山(クノウザン)に埋葬され、そこに東照宮(トウショウグウ)
が建立されて祀られましたが、翌年には家康の遺言通りに「江戸の真北から
北極星のパワーを借りて死後も江戸を護る」ということで、下野(シモツケ/野州
[ヤシュウ]/現栃木県)の日光にも東照宮が建立されて家康を祀り、
孫の3代将軍・家光(イエミツ)は日光東照宮を絢爛豪華に改築造営して、
徳川の治世の盤石を願ったのです。その時に日光東照宮の初代
奥宮(オクミヤ)が、上野(コウズケ/上州[ジョウシュウ]/現群馬県)の世良田
(セラダ/現・太田市域。徳川氏発祥の地。平安末期に同地で最初に徳川姓を
名乗ったのが新田氏の一族、徳川義季[ヨシスエ]。しかしその子孫は世良田姓を
名乗り、南北朝期に三河(ミカワ/三州[サンシュウ]/現愛知県東部)の松平郷(マツダイラゴウ/
現・豊田市域)に移ると、松平に姓を変更。しかし家康の代に家康本人のみ
徳川姓に戻し、江戸幕府を開くと、将軍家と御三家のみが徳川を名乗り、
他の一族は松平のままで区別。) に移築され、世良田東照宮も建立されてます。
昨年11月、ワタクシが初めて世良田東照宮に参詣した折に、
その神社の資料室で東照宮のレイライン地図を拝見し、
日光東照宮~世良田東照宮~富士山~久能山東照宮(~御前崎)が
1直線で結ばれる東照宮のレイラインの存在を初めて知ったのです。
Ley Line というのは、遺跡/聖地/宗教施設/パワースポット等が
偶然か必然か、地図上で1直線に並ぶラインのことで、有名な日本の
レイラインの、鹿島神宮~皇居~明治神宮~富士山~伊勢神宮~・・・や、
出雲大社~元伊勢~伊吹山~富士山~寒川神社等の存在は聞いてましたが、
久能山~日光のレイラインは全く知りませんでした。ワタクシは40数年前の
ナウいヤング時代に富士山に登って御来光を拝み、富士山頂上 浅間大社奥宮
にもお参りしておりますので、残す所の久能山東照宮と御前崎に参れば、
日光~世良田~富士~のレイライン上5ポイント全てをおがめる事に
気付いたんです。久能山も御前崎も静岡県で近いし、ちかぢか参るべし、
と勝手に心に誓いつつ、今年の武漢病毒禍もありズルズルと早11ヶ月、
やっと先日ついに大御所様所縁のレイライン未踏の地をダビス軽で走破、
サク拝してまいりました。
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富士山頂の奥宮(オクミヤ)には参拝経験があるのに 富士の麓・富士宮の市街地にある、日本全国の 浅間(センゲン)神社の本宮(ホングウ)には 未参拝でしたので行って参りました、 富士山本宮 浅間大社(フジサンホングウセンゲンタイシャ)。 ワタクシ、晴れ男だとは言いませんが、 雨男を自覚したことなど一度もないことを 再認識した日本晴れです。
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Fujisan-hongu Sengen-taisha 流鏑馬(ヤブサメ)の像 源頼朝の富士の巻狩に起源を持つ 本宮浅間大社の流鏑馬は毎年5/5 (ワタクシ一応、弓道初段ですが 乗馬経験は1度あるのみ) |
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日本平(Nihondaira, 静岡市)初登頂byダビス軽。 眼下の清水ミナトと、遥か雲上の富士 |
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Kunozan-toshogu Shrine 久能山東照宮(静岡市) 初参拝
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静岡県内の大権現様所縁のレイラインを巡ってきたわけですが、そもそも
自称・歴じぃのワタクシは、関ヶ原の合戦では西軍贔屓、大坂の陣でも
豊臣方贔屓という、東照宮参拝者としては不埒な輩?ですw。しかしながら
キリスト教の禁止と、九州の特定港のみで行うオランダ朝鮮シナとの貿易
以外の対外接触を禁じたことにより、日本が西葡蘭英という17世紀当時の
西欧列強と軍事衝突するリスクを大幅に軽減させたタヌキ親父殿を
250年に渡る泰平の世の礎を築いた名君としてリスペクトはしてますよ。
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以下、ここ半月の推奨ツベ