2018/11/09

Mauerfall(ベルリンの壁崩壊)29thAnniv.

毎度。ワタクシが、崩壊前のモロ現役中なベルリンの壁に無断で

ペイントしてきたことのある数少ないヤパーニッシュれじぇんど

カッコ 自分で言うな カッコ閉じの Dabis-Knacker(※註)です。

1989年の11月9日にベルリンの壁が崩壊したので、来年2019年の

今日11/9が丁度30周年てことで、当然ドイツでは盛大なイベントが

催されるだろし、日本でもニュースとしてあちこちで取り上げられる

ことでせう。そこで、臍曲がりの天邪鬼なワタクシとしては、あえて

丸1年のフライングを犯しw、ベルリン・ウォールを本日のお題とし、

来年の今頃は壁バナをスルーさせていただきます。

 今から丁度30年前の1988年、当時まだ20代のDabis-Kozohが

当時まだ西ドイツの西ベルリン市を訪れた際、音系ゲージツ屋の

ハシクレとして、さらにはガキの頃から嫌ソ反共なミリオタの

ジユー主義陣営人wとして、“冷戦最前線のバリケード”にして

“東西分断の象徴”でもある“自由の敵なアカの壁”に、これはもう

何か書くっきゃねーだろ的衝動にかられ、西ベルリンの街角に

みつけたDIYショップのような店で、黄と黒のペンキ缶(小)各1と

刷毛1本を、当時はまだ€uroちゃいまんねん、

DM(ドイッチェ・マルク)でんねんな現金で購入。

勘違いしてる人も多いとは思うけど、実はベルリンの壁ってのは

東西の境界線の真上に建てられてた物じゃないんです。東側が勝手に

作った壁なので、完全に東側の領内に建てられてたんです。

つまり壁の西ベルリン側も、壁際の周回路までは厳密に言えば

東ドイツ領だったのです。ホントにボーダー上に建てるとしたら

東側作業員も西側に足を踏み入れないことには脚立ひとつ立てれず、

西側の同意なしに建設するのは無理ですからね。

なので西側の壁際に立つという行為は、厳密にいえば東独への

密入国行為~挑発行為とみなされ、トラブルの元になりかねないので、

西ベルリン市民にも観光客にも壁には近づくな、と当局から

お達しが出てたのです。当局というのは、88年当時ですでに

戦後43年も経つというのに、占領軍(米英仏)の当局ですよ。

東西冷戦の欧州における最前線だった西ベルリンは、当時なお

第二次大戦西側戦勝国たる米英仏の3ヶ国軍(そのままNATOの

中核の3ヶ国軍)によって3分割統治されてたのです。

ワタクシが壁にペイントしようと狙いをつけたヒトケの無い所は

英軍管理エリアでした。事前に入手していた情報によると

60分に1度程度、ジープで英国兵が巡回して壁に張り付いてる人を

排除してる、とのことなので、ワタクシは狙ったポイント付近を

壁からやや離れてゆっくりウロつきながら壁の絵を見物したり、

タバコで一服しつつ(当時は喫煙者)、英軍の巡回ジープが来るのを

しばし待ったのです。するとものの10分か20分で英国兵が

数名搭乗してる“ランドローバー”が出現。英国兵とは目を

合わさぬようにしてやり過ごし、その車影が100mほど先の

コーナーを曲がって視界から消えた瞬間、もちろん自己責任でw

壁際にサっと移動してペンキ缶のフタを開け、20~30分くらいで

書き上げたのが、コレ↓

BERLIN WALL, Aug.XX 1988
この後、日本語で「東京スカンクス見参」とも大書。
ベッタベタで芸の無いタギング、どーもさーせん
翌年の崩壊でベルリンの壁を特集したアカ写真誌・毎日グラフに、
この$x署名w部分の壁写真がしっかり掲載されてました

しかし、まさかこのほんの15ヶ月後に、この悪名高きアカの壁が

東西両ドイツ国民により破壊されることになるとは、全く予想だに

してませんでした。30年も前のことなので、記憶も曖昧なのですが

おそらく、このペイント前日にロケハンで壁を訪れた際、

何やら壁際で作り物をしてる集団がいたので見てたら、

「ヒーナ人か?それともヤパン人か?」と声をかけられ、

「日本人なら参加してくれよ」と言われ、アンチ壁で反東独政府的な

雰囲気だったので、よくわからないまま勢いだけで飛び入り参加の

パフォーマンス、右から2人目で横向いてるのがワタクシ↓

徐々に埋められるダビ“すけっと外人”
(昭和63年8月吉日於伯林)

1988年夏、壁に埋め込められたワタクシ。
黒塗料で上から DDR(東独),BRD(西独),
ハンマーとコンパスの東独国章,BREAK ITの文字。
この後「壊して出てこい」と言われて
紙を破いて東から西に脱出したのでした。

しかしベルリンの壁については色々とカンチガイしてる日本人が

ホント多かったですね。そもそも西ベルリンの周囲すべてが東独領

だったわけで、西ベルリンは西独の実質的な飛び地だったのです。

第二次大戦の敗戦時(1945年5月)にドイツは、首都ベルリンを含む

東部はソ連軍に、それ以外の西部は米英仏3ヶ国軍に占領されており、

1949年9月に米英仏が占領地域をドイツ連邦共和国(西独/BRD,

首都はボン)として独立させると、翌10月にはソ連が占領地域を

ドイツ民主共和国(東独/DDR)として分離独立させたのです。しかし

東西分離独立以前から、旧首都ベルリンに関しては、周囲すべてが

ソ連占領エリアにもかかわらず、米英仏ソで4分割して統治する

取り決めがなされ、ベルリンのソ連統治エリア(東ベルリン)は

東独の独立時に東独の首都になったのですが、米英仏統治エリアは

東独に吸収されることなく、西独の実質的な飛び地(といっても

西独独立後も米英仏3ヶ国軍が西ベルリンを統治)となったのです。

ソ連の衛星国として社会主義国家となった東独の国民には、

その不自由な生活を嫌って米英仏統治下の西ベルリンにまず逃亡し、

そこからさらに西独本国に脱出する者が続出。1950年代には毎年

10万単位で国民が西へ脱出し続け、1960年には累計270万人を超え、

ついに国家存亡の危機を感じた東独政府は1961年、東ベルリン市内に

ソ連軍がズラリと警戒配備する中(それ以前に東ベルリン市民による

反政府暴動が起きた際に、ソ連軍が鎮圧した“実績”があったのです)、

東独兵士によって西ベルリンに通じる道路すべてをひとまず有刺鉄線

で封鎖させたのです。そのあと西ベルリンをぐるりと囲む壁を建設し、

さらに壁の東側数十メートルを更地とし、各所に銃座も配備。東独の

国境警備兵はその更地を壁に向かって駆け出す者をみつけ次第、発砲。

故郷の東独を捨てて自由な西独への脱出を試みる人、

離散家族と再会するために命がけのエスケープにトライする人、

そんな自国民に向かって機関銃を発射する兵士、さらにその職務を

放棄して自ら西側への脱出を試みるも同僚に撃たれてしまう兵士。

そんな国家が長続きするわけがありません。壁の崩壊と共に東独の

真っ赤な社会主義体制も瓦解して翌1990年10月3日、西独が東独を

吸収するカタチでドイツが再統一したのです。

1989年に壁が破壊されるまでの28年間に、壁を越えようとして

射殺された人の数は、判明してる最少でも136名とのこと。アーメン


 以下のコミックは、ルフトヴァッフェのシュワルベ(Me262,

世界初の実用ジェット戦闘機)のパイロット戦記。この終章では

主人公が1945年5月から一気に浦島太郎してw、壁崩壊2ヶ月後の

1990年正月、壁が消えて東西両ドイツ国民が統一の気運に沸きたつ

ブランデンブルク門前が舞台に、ってなマンガ。某・国防魔女アニメの

トゥルーデやウルスラのファンにはリコメンド?!w

日本出版社・ボムコミックス(1991年)

自称・前世ではヴェールマハトに属していた、ミリオタの歴じぃ的に

11月9日ってのは色々あった日ではあります。

1918.11.09 独皇帝が蘭に亡命,第二帝国崩壊。100周年

1925.11.09 ナチ党が親衛隊(SS)を編成。

1938.11.09 クリスタル ナハト(水晶の夜事件)。80周年

子細省略、興味ある人はおぐぐり下さい。

※註英語のknacker(ナカー)には、他動詞で~を壊す,へばらせる、

名詞だと(廃屋・廃船の)解体業者,廃馬処理業者,老いぼれ馬(牛)、

複数形でカスタネット,睾丸 などナカナカ~色んな意味があるけど、

ドイツ語のKnacker(クナッカー)は、(侮蔑的)ジジイ,ババアや、

(鳴らす方の)クラッカーの意味なんだそうです。