先月、久々に大阪に行ってきたのですが、そのついでに恐らく
17~18年ぶりに真田山付近を散策。ながらく真田丸(大坂冬の陣
における豊臣方の出城)の跡地とされていた三光神社に参拝。
2年前のNHK大河「真田丸」のオンエアに当然あわせて境内を整備、
装飾を施し、社務所では真田グッズ各種を販売して観光客対応した
であろう名残が同ドラマの放送終了から1年5ヶ月という今も十分
垣間見れます。17,8年前にも伝・真田の抜け穴(大坂城内に地下で
繋がっていたと伝わる抜け道)の出入り口のすぐ横に真田左衛門佐
(サエモンノスケ)幸村(本名は信繁)の石像はすでに建っておりましたが
(1985~86年のNHK水曜ドラマ「真田太平記」のオンエアに合わせて
建立された可能性大。未確認)、ズラリと並んだ置き盾と鉄砲で
真田丸を模した装飾などまだなく、六文銭の幟も今のように林立は
してませんでした。近年の最新調査で真田丸のあった正確な位置は
現在の大阪明星学園中高~心眼寺と特定され、三光神社の位置は
真田丸東端から東に180mほどの域外だと判明したようですが、
まぁそんな至近距離なので、真田丸に押し寄せし徳川勢の足跡、
もしくは豊臣方伏兵ひそみし跡が残るような戦場だったことには
違いないと思われます。
三光神社(Sanko-jinja Shrine)の 境内に建つ 真田幸村(SANADA Yukimura)像 その左の石組は伝「真田の抜け穴」 出入口 |
三光神社の本殿 右側の顔出し記念撮影パネル、 赤備えの武者はもちろん 真田幸村ですが その左の青装束の忍者は真田十勇士 で有名な猿飛佐助とのこと ベッタベタのコッテコテな 観光地仕様で丸w👍 |
大阪明星学園中学高校グランド横に 建てられた真田丸顕彰碑 左の台座には真田の家紋「六文銭」 右には豊臣の家紋「太閤桐」 |
真田丸の一角に組み込まれていた 心眼寺(Shingan-ji Temple) |
真田丸の鬼門にあたる(北東カド。 なので人為的に“面取り”されたのか、 元から自然の形状なのかは未確認な) 心眼寺の墓地、の外周。当時は崖。 |
真田山から南西2km強にある 茶臼山(Chausu-yama Mountain)。 天王寺公園の一角にあり、 5世紀頃の古墳だと言われるも未確定。 標高26mの山頂を北斜面より望む。 大坂冬の陣(1614年)では徳川家康が、 大坂夏の陣(1615年)では真田幸村が 本陣をしいた地。 |
茶臼山山頂 |
茶臼山山頂の基準点(三角点) 真田の六文銭の反対側には徳川の三葉葵 右のテーブル状の台には布陣図 |
茶臼山東麓に立つ大坂の陣の碑 |
以上、世間から2年も遅れて大阪市内の真田左衛門佐所縁の地を
回ってみた、というハナシでしたが、ついでに世間から2年も早く
滋賀県の某所を訪ねてみました。再来年(2020年)のNHK大河は
長谷川博己が主演で明智光秀役の「麒麟がくる」に決定とのこと。
当blog昨年12月18日付投稿「最終回とか最終章とか」でワタクシが
「戦国期で最も興味ある人物は明智光秀」と書いた、ほんの数ヶ月後に
NHKが2020年大河の主人公は「明智光秀」に決定、と発表したので
何やら妙な気分です。「NHKテレ朝TBSフジテレビは反保守で親サヨク、
反日で媚中・親韓鮮な偏向マスゴミ。報道番組を見てはダメ」なんて
ワタクシは当blogで繰り返し発言してるので、それを監視wしてる
NHK職員からまるで「大河で光秀やってやるからもう批判するな」
とでも言われたような気になりますw。そういうのを自意識過剰wと
いうんですけどねw。実際の所は、何年も前から光秀所縁の各地の
有志らが“光秀主役の大河”を制作するようNHKに働きかけてる事は
歴史専門誌で読んで知ってましたが、それがようやく実を結んだ
ってことでしょうね。で、ワタクシが先月、2年もフライングwして
訪れたのは近江の坂本(現・滋賀県大津市)です。近くの堅田では
東京スカンクスの巡業で一度ライヴしてますが、その時ワタクシは
ツアー車のハンドルを握りながら「ここいらが光秀の居城があった
坂本かぁ」と内心感慨にふけりつつ素通りした記憶はありますが、
先月が初訪となりました。
坂本に朝がた到着すると実はまず最初に比叡山に登り、
延暦寺を参観したのですが、比叡山の話はまたの機会にいたします。
光秀は美濃(岐阜県南部)出身で、仕えた主君は斎藤道三→朝倉義景→
足利義昭→織田信長→正親町天皇。最後のオオギマチ天皇、この事を
意識してない人大杉です。信長なき後の正確には「13日天下」の間、
光秀は天下人とはいえ、さらにその上にはミカドがおわしますのやw。
にしても、この遍歴を見ると明智十兵衛はモロ転職マニア?ですなぁw。
信長による比叡山焼き討ち(明智勢も主力部隊の1つとして参加)の
あと、信長から当時の滋賀郡全域(今の滋賀県南西部)を拝領した光秀は、
比叡山の東麓・坂本の琵琶湖の湖水に面した地に、1570s当時としては
安土城に次ぐ日本で2番目に豪壮華麗な城(←これ知らん人多いかも)
と言われた坂本城を築いて居城としたのです。本能寺の変11年前の話。
その後光秀は丹波(京都府中部)平定時に丹波の亀山城(亀岡市)に拠点
を移すも、坂本城には妻子を置き、光秀は坂本城主であり続けた模様。
本能寺の変の後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、坂本に落ちる途中、
落ち武者狩りにあい落命したと普通いわれてますが、実は生き延びて
比叡山で僧となり、徳川家康の前に南光坊 天海として現れて再会し、
徳川三代に仕え、風水に基づいた江戸の街づくりや日光東照宮造営に
尽力したという天海=光秀説は、チンギスハン義経説などよりは
はるかに現実味があり、歴史ロマンを感じると言わざるをえません。
信じるか信じないかは穴太(アノウ)衆次第です。
二の丸の郭内だったと推定される、 現在は住宅地の街角に建つ 坂本城址の碑と説明板 |
大魔神ちゃいまんねん 惟任日向守でんねん 三の丸の南東端と推定される 坂本城址公園に建つ 明智光秀(AKECHI Mitsuhide)像 |
坂本城址公園に建つ歌碑 「光秀(おとこ)の意地」 近くにあるボタンを押すと 鳥羽一郎が歌う同曲 (当然ながらド演歌)が流れます ラストコーラス最終行 「武士は散れども桔梗(な)は残る」 キキョウ(明智の家紋)と書いて 「名」と読ますとこ渋杉! 他人様upツベ動画その歌↓ https://www.youtube.com/watch?v=9QdSrktr9Dk ちなみにこの石碑画の元絵、 これ光秀ちゃいますやん 光秀のイトコ説もある娘婿、左馬助 (サマノスケ)秀満(通称 光春)ちゃいますのん 「明智左馬之助 湖水渡り」 の図の1つちゃいますか |
坂本城本丸跡地を北側の マクド駐車場ワキより望む |
明智塚(突き当り奥の盛り土) 本丸外周あたりと推定される、 この民間私有地から武具等多数出土。 土地所有者の多大なる善意により 供養の塚を建立し 一般市民も参拝可能なカタチに整備。 |
天台真盛(シンセイ)宗総本山 西教寺(Saikyo-ji Temple) 信長の叡山焼討の際に火災に合うも 新領主となった光秀が復興に協力したのみならず 当山の檀徒となり、明智の墓もこちら↓ |
光秀供養塔と明智一族の墓(西教寺) 石垣に注目。ここ旧滋賀郡坂本村の 南隣は旧滋賀郡穴太(アノウ)村で 石工集団“穴太衆”の本拠ですよ。 当山の石垣も当然ながら穴太積み (穴太衆による野面積み)。 自然石と切り出した石を 巧みに合わせて積み上げる方式。 |
明智の旗印、水色桔梗 |
以上、世間より2年早く明智光秀所縁の地のひとつを訪ねてみた
というハナシでした。おそらく2年後、これらの場所の多くには
水色桔梗の幟、旗指物が林立してることと思います。てか、
林立してるべきですよ。w
美濃、越前、丹波の光秀所縁の地にもいづれは参る所存です。
当blog過去の明智光秀関連投稿↓
http://dabis-k.blogspot.jp/2014/12/blog-post_17.html
↑2014年12月17日投稿「鱈レバ歴バナ」の中程と終盤で
光秀について触れてます。
by 4年前から自室に六文銭の幟と水色桔梗の幟を掲げてる
歴じぃでした。北条、毛利、新選組その他の旗もありますがね。