2019/12/22

本日冬至

ってことは明日からまた少しずつ日が長くなるわけで嬉しいですね。

この時期、街のどこ歩いてもクリスマスソングが聴こえてくるし、

どの店入ってもクリスマス飾りがしてあるし(1980sの頃の方が

今よりもっとスゴく、悪趣味だったけどね)。なのに訪日外国人が

日本人のキリスト教徒率を知ったらビックリ仰天でしょうねぇ。

ワタクシが数十年前に得た知識としては確か4%。25人に1人。

だいたい学校のクラスにクリスチャンは1人か2人だったので、

実感の持てる数字として記憶に残ってました。それが最近の

統計では、日本人のクリスチャン率はわずか1%らしいです

(そんな国によくまぁローマ法王も来たもんだw)。ひょっとして

以前の4%という数字は、クリスチャン率の高い在日コリアンも

含めての数字だったのか、はたまた、ここ数十年間に何度も

起きたエロ牧師による性犯罪の影響で、統一教会などからの

脱会者が激増してクリスチャン全体数が実際に激減したのかは

知りませんが、なんにせよ信者が国民のわずか1%の国で、

12/25のキリスト生誕祭をこれほど派手に祝う、てか利用して

楽しんでる、ちゅうか商売にして儲けてる国なんてのは

世界広しといえども日本くらいなものでせう。

16世紀に日本にキリスト教を初めて伝えた、といっても、

「賢くて文化的にも成熟してる日本人への布教なんて全然もうムリ」

と諦めて失意のもと日本を去ったフランシスコ・ザビエル

(ザビエルは自身の説法内容の、おかしな点を日本の一般庶民から

指摘されても反論できずに論破されてしまうこともままあり、

日本人の知的水準の高さに驚愕し、日本での布教を断念。ザマぁ。

ザマぁってのは、ザビエルは「元から文化水準が高く、簡単には

改宗に応じない日本人は危険な存在なので皆殺しにすべき」と

イエズス会(海外派遣宣教師の欧州本部)に報告してんですよ) が、

今日の日本の、信者わずか1%にもかかわらず盛り上がる

クリスマス・シーズンの街の様子を見たら、いったい何と言うで

せうかね? 「日本人、やはり恐るべし」でせうかねwww

ワタクシ個人はクリスマスなんて昔から全然キョーミ無く

(ガキの頃から「メリークリスマス!」などと自分から言ったことも、

書いたことも一度も無いんですwマジ)、クリスマス・パーリ゙とは

ワタクシには単に忘年会の一種の飲み喰いの場、という認識しか

なく、クリスマス・イヴを年に1度の最高ロマンチックな夜として

何やら特別視する風潮とかも若い頃からクソクラエでしたからね。

英語Romanticの反対語を知ってますか? Rusticですよマジwww

「永遠の都Rome風」の反対語としての「欧州の辺境Russia風」

ってのが田舎臭い/荒作りの/粗暴な、英語Rusticの語源なんです。

東京スカンクスはRomanticなメロ楽曲も多いんですがねwww

話がそれましたが、かくいうワタクシもクリスマスパーリ゙に

参加する機会があれば、まぁ参加だけして否定などはせず、

「メリー・クリスマス!」という他人の音頭には「イエー!」とだけ

応えて乾杯したりクラッカー鳴らしたりは、してきましたが、

今も自称D級グルメとして、クリスマスとは単に「世間では

チキンやケーキを喰らい、シャンペンを呑む日」としてのみ

認識してるって感じすかね(D級グルメのくせにドンペリニョン

なら何度もロハで飲んだことあります。てのも1980sには港区の

もぐりディスコやカフェバーで黒服wでしたからね)。

こんなアンチ・キリスト教wで単なる酒飲みのワタクシですが

音楽的にはクリスマスといえばやっぱ讃美歌・教会音楽ですよ

(Rock/Pop/Dance1970s以降のクリスマスソングは昔から

なんか鼻について好きじゃないんです。でも1950s以前の

米国系クリスマスソングなら、なぜかOKどころか好きですよ)。

教会系音楽ならワタクシ、10代の頃から「ヨハン・セバスちゃん

が大好きでして(キリスト教は何やらオシツケがましい偽善ブリ感が

大嫌いなのですが、キリスト教教会音楽の良質な作品が持つ、1宗教に

関する好き嫌いなど超越した次元での芸術性に心うたれるのです)、

東洋センクスでも今年から、18世紀ドイツの同ちゃん作曲

「管弦楽組曲第3番ニ長調の第2曲」(通称「G線上のアリア」。

まぁこの曲は宗教音楽ではなく絶対音楽ですけどね)を、

スラップベース、バグパイプ、アコーデオン、バンジョー等の音で、

かつジャメイカンなノリでカヴァーしてます。

こういう自由な古今東西の混成音楽こそがラスチックの醍醐味

なんですよ。Rustic StompとはモロWorld Musicで、かつ本来の

意味でのMixture Musicであり、普通にDance Musicですよ。

来年には18世紀ドイツの同ちゃん作品第2弾として、

これまたクリスマスにもお似合いな「カンタータ第147番の

最終楽章」をラスチックver.でカヴァーしてみる予定。

その曲のオーケストラ合唱ver.↓
https://www.youtube.com/watch?v=WUo7tQOvapE

パイプオルガン独奏ver.↓
https://www.youtube.com/watch?v=l3UuGPCCm_I

↑クラシック好きには「G線上のアリア」同様、ベタすぎる

ド定番曲「主よ人の望みの喜びよ」でした。オリジナルな

合唱の歌詞は独語だけど英語圏の楽団では英訳された歌詞で

合唱されることが多く、その英詞がどう聴いても字余りな

個所があり、英語ver.は苦笑モノです。それはさておき、

ポップなアレンジでも演りまくられてきたド定番曲なので、

だからこそラスチック・アレンジへのチャレンジのし甲斐も

あるってもんです。乞う御期待。

 ワタクシは日本人に最も多い、形式的な「葬式仏教徒」wにして

神社参拝の好きな、まぁよくいるタイプです。昨年11月から

神社の御朱印も集めてますし(30社から戴きました)、

自室には某神宮の御札、車には某八幡のお守りです。

そんな神道好きだから言うわけじゃありませんが、日本における

キリスト教ってのは、西洋人が日本を支配するための第一段階の

洗脳手段として入ってきたわけですから、いいイメージなんか

逆立ちしても持てないですよ。クリスチャンには悪いけどね。

16世紀にスペインとポルトガルが世界中に植民地を広げた

手法として、まずは現地にキリスト教の宣教師を送り込み、

現地人にキリスト教徒を増やし、現地の今の王家は邪悪な存在で

神の敵だ!と洗脳して、キリスト教徒に反乱を起こさせ、

その反乱にスペイン軍/ポルトガル軍が協力することで、

わずかな兵力ででも現地の王家を滅ぼし、その混乱に乗じて

反乱軍中枢も殲滅して国を乗っ取り、植民地化するという

悪辣な手口をキリスト教の神の名のもとに繰り返してたわけで、

それに気付いた豊臣秀吉も徳川家康もキリスト教を禁じ、

異国人宣教師を国外追放したわけです。家康に至っては

支那・朝鮮・オランダの3国以外の国との貿易すら絶つに至り、

完全にスペイン・ポルトガル(以下「西・葡」)の侵略勢力は

日本から駆逐されたのです。

アメリカ大陸、アフリカ、アジア、オセアニアの大方が

ヨーロッパの強国に軍事占領されて植民地化されていった

16~19世紀に、日本が独立を保てたのは、実は1600年の

関ヶ原の戦い時点で、日本は鉄砲保有数が世界最大という

軍事大国だったからです。この日本の軍事力が恐ろしくて

西・葡・蘭・英も迂闊には日本侵略などできなかったのです。

現在の日本周辺には中共と北鮮という反日かつ危険な

暴力国家が存在してるにもかかわらず、自衛隊の軍備に反対し、

非現実的な非武装中立を夢見てるような汚花畑のDUPES連中は、

過去の歴史の真実をちゃんと学びませうね。

強大な軍事力があったからこそ、キリスト教禁止令・宣教師追放も、

“いわゆる鎖国”も可能で日本の独立が守られたのです。

強大な軍事力を有して無ければ、当時の世界最強レベルの侵略国家

だった西・葡に対して布教と貿易を強気に禁じることなど不可能で、

平和と独立を日本は守れなかった可能性が大なんです。しかし

「ヘタに武力が強かったから秀吉は朝鮮を侵略したんだろ?」なんて

言う人もいるとは思いますが、秀吉の朝鮮出兵は、実はスペインの

日本侵略計画をくじくための国防策で、朝鮮支配が目的ではなく、

支那(明)に向けての出兵だったのです。どういうことかと言うと、

日本人の知的水準の高さと武力の強さに気付いたスペインは、

キリスト教を布教してから日本人キリスト教徒に反乱を起こさせ、

それに介入して国を乗っ取るという従来のパターンは無理だと悟り、

大兵力で力攻めするしかないと考え、日本よりは攻め取り易そうな

支那(明)をまず占領し、その支那人の大兵力を使って日本を侵略する

という、かつてモンゴルが占領地の朝鮮人と支那人を総動員して

日本に侵攻した「元寇」と同じような日本侵略作戦を立案したのです。

スペインがそんな計画を立ててるという情報を得た秀吉は、

「ならばスペインより先に日本が支那を抑えればよい」と考え、

朝鮮半島経由での支那遠征をめざしたのが秀吉の言う

「唐入(カライリ)」、結果としての「朝鮮出兵」だったのです。秀吉は

朝鮮に対しては「危害は加えぬから日本軍を素通りさせて欲しい」

と頼んだにもかかわらず、朝鮮側は支那(明)に援軍を頼んで

抵抗したので半島での戦争になってしまったのです。一方その頃、

スペインは新興国の英国と各地で争うこととなり、極東侵略どころ

ではなくなり、日本も支那も助かりました。話がそれましたが

その豊臣秀吉なきあと、徳川家康も命じたキリスト教の禁止と、

さらに家康が断行した“いわゆる鎖国”(明~清の支那、朝鮮、

陀(和蘭)の3ヶ国とは、九州の指定された港でのみとはいえ

交易はしてたので国を完全に閉ざしてたワケではありません

のおかげで、17~19世紀の日本は独立と、独自の文化発展が

可能だったんです。神君 家康公、東照大権現様 萬歳!

そのように日本の独立を守ることになる、ホントいい仕事をした、

日本史上の偉人ベスト10には入るだろう徳川家康ですが

(などと書いてはいても、ワタクシは「関ヶ原」も「大坂の陣」も、

実はアンチ徳川で負けた西軍側シンパなんですwww)、

奇しくも本日12月22日は「三方ヶ原の戦い」のあった日

(元亀三年師走廿ニ日/西暦1573年1月25日)ですよ。

当時25才の家康の本拠だった浜松の郊外で、徳川織田連合軍

(信長は不在)が武田信玄軍に大敗を喫し、家康は家臣複数に

自分を逃がすための盾や身代わりとなって死んでもらい、

馬で居城の浜松城に1人で逃げ帰るのですが、敵に追われて

恐怖のあまり馬上でウ〇チをちびっていたという、

地にまみれるどころかク〇にまみれた大敗北だったのです。

この家康の人生最悪の負けイクサは、「伊賀越え」や

「大坂夏の陣(の真田の猛攻)」と並ぶ、討ち死に覚悟の大ピンチ

だったわけです。そんな死線を幾度も乗り越えて天下を取り、

徳川250余年の太平の世を築いた家康公を祀る諸神社の頂点に立つのが

日光東照宮です。徳川第三代将軍 家光による日光東照宮改築の際に、

その日光東照宮の奥宮が、上野国 世良田郷(コウズケノクニせらだゴウ。

現群馬県太田市世良田町)に移築され、世良田東照宮として造営され

現在に至ってます。その世良田は徳川家発祥の地なんですよ(※註)。

世良田東照宮(群馬県太田市)

左:家康公の墓がある日光東照宮・奥宮
右:日光東照宮・初代奥宮の移設先、世良田東照宮
左:日光東照宮に隣接する、下野国一宮
(シモツケノクニイチノミヤ)たる二荒山(フタラサン)神社
右:日光東照宮・本殿


駿府(すんぷ/現・静岡市)で亡くなった家康は初め、駿府すぐ近くの

久能山(くのうざん)東照宮に祀られ、その後、久能山と富士山を結ぶ

直線の延長線上で江戸の真北ともなる日光の東照宮に祀られました。

さらに久能山~富士山~日光を結ぶ直線上にある、徳川家発祥の地・

世良田に日光東照宮の奥宮が移築されたのです。レイラインですよ。

この日光・世良田・富士山・久能山を直線で結ぶ Ley Lineの存在は

先月、世良田東照宮の資料室を拝観して初めて知りました。

富士山頂には過去、登頂しており、山頂の浅間神社参拝と

御来光遥拝は済ませてますので、あとは久能山です。もう

ここまで来たら、久能山東照宮にも近く参詣する所存です。

しかし、そもそも世良田が徳川家発祥の地であり、東照宮が

建てられてることを過去一度、テレビ番組(「ヒストリア」か

「その時歴史が動いた」)で見たよな記憶はありましたが、

セラダの地名は完全に忘れてました。が、当ブログ過去の拙文を

読んでくださり、ワタクシが御朱印蒐集を開始したことを知った

世良田東照宮の神職1名から「是非ご参拝を」とのメールを

頂戴していたのです。それで先月、東京から見れば世良田とは

同方面で、まぁ近いといえる熊谷で東洋センクスがプレイする

当日の昼に、少し足をのばして世良田東照宮に参詣した次第です。

御朱印帳を手に社務所をのぞくと神職が複数おられましたが、

ワタクシにメールくれた神主さんはすぐわかりました。

見覚えがあったのです。その神主さんに「御朱印お願いします」と

頼むと、先方はすぐワタクシに気づき、お互いニヤリw。

神社でこんなニヤリ感?wを味わう日が来ようとはw。次代で宮司

となる彼はその場ですぐmy御朱印帳に手慣れた筆さばきでサラサラと

墨書し押印。目の前にいるのは列記とした禰宜(ねぎ)さんで、

今はどう見てもレッキンとは無縁なお方ですw。そのあと本殿や

資料室を解説付きで案内してくれました。自称・歴じぃの

ワタクシ的には興味深い話だらけで感激しましたよ。で帰り際に、

今度はワタクシが神主さんから「サインお願いします」と

渡されたのが東京スカンクス1st7インチ、限定500枚中の1枚。

まさかマサカの上州は徳川家発祥地の神社の神主さんと、

書いて書かれての関係w、いいね。

お土産まで色々いただいてしまい恐縮至極な世良田東照宮詣ででした。

世良田東照宮参詣の翌週、早速
日光東照宮に参詣(人生2度目)。
写真は日光・神橋前の南光坊 天海像。
江戸の都市計画と東照宮造営に
活躍した家康のブレーン、天海僧都。
実は生きていた明智光秀(または

明智秀満)の第二の人生説もある
謎多き人物につきモザイク
w lol

日光でオヤツに購入した
左:栃木名物・味噌おにぎり
右:日光限定?徳川コーラ

※註:徳川家は清和源氏 新田流を自称。足利氏と並ぶ関東の

源氏の名門、新田(ニッタ)氏の氏祖・新田義重の四男・義季(ヨシスエ)が

平安末期に徳川義季を名乗り、上野国 世良田郷を治め、鎌倉期に

徳川義季の次男?頼氏から7代は世良田氏を自称。南北朝期に

新田一門として南朝方の世良田家は、足利勢ら北朝方に追われ、

世良田頼氏から7代後の親氏が三河国 松平郷に移り、松平氏を自称。

松平親氏から8代後の松平家康が、戦国期に三河を統一した際に

16代(三百数十年)ぶりに徳川姓に復姓して徳川家康を名乗った

とのこと。その際、家康本人1人のみが徳川に改姓し、他の同族の

者は松平姓のままにしたので、幕府を開いた後も将軍家と御三家

(家康の実子多数の中から3人)のみが徳川を名乗り、他の同族

(ほぼ皆、親藩大名)は松平として続くわけ。ではまた