政治も教育も報道も全体的に中心線が左にズレてしまってる我が国の
国内基準に対しては「愛国リベラルな平仮名うよくw」を自称
せざるをえない?w、一介の音楽人によるツレヅレ語り
(ツンデレちゃいまんねん)、本年も宜しくお願い致します。
実は昨年はカラダあちこちナニゲに痛みが出て、
CTとったりエコー検査うけたり。とりあえずどこも大事はなく
セーフと言われ、ひと安心だけど、気付いたら54才だからね。
まだまだ四捨五入すれば45の若者とタメ(どこがやねんw)な
ナウいヤング(それ、1970sの若者やんw)だとは思ってるけど、
今までの不規則悪い飲酒生活はそろそろ本気で見直さないとね。
そんなこんなで、その煙を浴びるとカラダに良いと言われてる
"どんど焼き"(1/15の小正月、または松の内が明けた最初の
日曜の朝、神社で行われる正月飾りのお焚き上げ。"どんと焼き"、
"どんどん焼き"に同じ。)の煙を数年ぶりに浴びたくなり、
江戸期(~昭和極初期)では隣村の、鎮守様(氏神の神社)へ。
というのも今現在すんでる旧・武蔵國豊嶋郡(~東京府北豊島郡)
S村の鎮守様では、どんど焼きをしてないことは去年の正月に
確認ずみなのです。で、昨日朝までドアに飾ってた注連飾りを持って
1キロほど離れた旧隣村(3年前までの居住地)の鎮守様に行くと、
山と積まれた御札に破魔矢に正月飾りを丁度リアカーに
積み替えてる方がいたので、どんど焼きはどの辺で行うか尋ねると、
当社では どんど焼きの行事は行わないとの事。で、今からボチボチ
普通にお焚き上げするのみとの事。道理で午前9時若干前という
いい時間なのに、広い境内のどこにも どんど焼き用の"結界"は
設けられておらず、正月飾り持参で来る人影も見えないわけです。
その神社は三が日には初詣客で大行列ができる神社で、
かなり境内は広く、火災の危険も低いのに残念。ひょっとして
人が集まりすぎて、正月飾りを勝手にポンポンと火に投下されると
火の粉が舞い過ぎたり、青竹が破裂したりして危険?で止めたのか、
昔から元々どんど焼きの風習のない村だったのかは未確認。
なんにせよ仕方なく、その神社からさらに1キロほど離れた
旧・2つ先の村(8年前までの居住地)の鎮守様へ直行。
そちらの神社での どんど焼きには過去何度も参加しており、
どんど焼きの炎で、竹竿の先の網籠に入れた御餅を焼いて、
まだ幼少だった娘と共に戴いた思い出もある、良き神社です。
到着すると丁度お祓いが始まろうとしてるところで、
百人程の人だかりが境内にできてました。
急いで本殿参拝をすまし、どんど焼きの神事に参加。
今や2つ先の"村"(ちなみに、これら3村のエリアはすべて
昭和初期に東京府東京市の区部に編入され、今は23区内)で
ヨソ者のワタクシですが、過去には丸20年もその神社の氏子で、
毎年の初詣(元日の零時に並んで参拝すると先着百名ほど?は
御神酒が戴けます)や、秋の例大祭はもちろん、何度か
12/28の大祓いにも参列したり、娘の生後ひと月のお宮参りや、
オノレ42才の厄払いでもお世話になった神社なので、
たまに訪れると何かホっとする、大きからず小さからず、
創建千百年の歴史もある街角のお社です。
東日本大震災では正門の大鳥居が全壊しました(その年内に再建)。
なんと当時中学生だったワタクシの娘は、その鳥居がガラガラと
倒壊する瞬間を目の当たりにした模様。幸いなことに怪我人は無し。
瓦礫を見ると、当時の都内では異様に目立つ程の崩壊ぶりでした。
きっと神社の周りの人々や建物の身代わりを一身に引き受けて
その鳥居が崩れてくれたのかも、とワタクシは娘に言った記憶あり。
そんな感じがする残骸でした。おそらく耐震性も低い、確か大正か
昭和初期に建立された石の鳥居だったため崩れてしまっただけ
なんてことは言いません。
恐美かしこみ~
旧・武蔵國多摩郡K村 (~東京府東多摩郡K村~東京府豊多摩郡I町) の鎮守たるO八幡神社での"どんど焼き" 神職2名でお祓いと祝詞 |
画面右上・矢印の先は、太田道灌が植えたとされる "道灌槇"(枯らさぬ様、念入りに養生されてます) |
竹竿の先では焼き餅、紙コップには甘酒 |